2016年12月23日金曜日

虐殺の次は洪水 スタンディング・ロック・スー族の苦難の歴史


Dec 23, 2016


ダコタ・アクセス・パイプライン建設反対は、地元先住民たちの苦渋の歴史と集団的記憶に支えられています。反対運動の拠点として設立された野営地スタンディング・ロック・スー族の「聖なる石(Sacred Stone)」キャンプで、デモクラシー・ナウ!のエイミー・グッドマンは、201693日、野営地の創設者の1人で、郷土史家のラドンナ・ブレーブブルブル・アラードを取材しました。153年前のその日、女子供も含めてラドンナの先祖は虐殺されたのです。
そしてその後、生き延びた人たちがどうにかして再び築き上げたコミュニティはダム建設計画によって水没させられ、部族は緑の乏しい高地の保留地へと追いやられました。
ダコタ・アクセス・パイプラインは、いまは私有地となっているスタンディング・ロック・ズー族の先祖の墓地であり聖なる場を通過します。また、パイプラインが地下を通過するオアヒ湖につながるミズーリ川は部族の大切な水源でもあります。
パイプライン建設の提案は4月に出されました。オアヒ湖周辺は、米陸軍工兵司令部の所有地ですが、先住民への相談もなく許可が出してしまいました。そのため、スタンディング・スー族は米陸軍工兵司令部を告訴し、判決が出るまで工事の差し止めを請求しました。
8月末に首都ワシントンで聴聞会が開かれ、9月初めに判決が出ましたが、先住民のかけがえのない聖地であるという言い分は物証が乏しいとし、先住民の提訴は却下されました。ただし、連邦政府の管轄が及ぶ米陸軍工兵司令部の保有地に関しては水の安全の見地からさらに検討を重ねるよう、その部分の工事の一時差し止めが認められました。
かけがえのない聖地であるという物証が乏しいという部分には、こんな事情があります。その地域が私有地になっていることもあり、考古学的な検証を行うのが容易ではなく、ようやく最近になって調査が開始されたばかりだったのです。ダコタ・アクセス・パイプラインは全長1200マイル(約1930 km)にもおよびさまざまな部族が暮らしていた地を通過します。9月末に、先住民たちが国連でパイプライン建設反対を訴えたときには、米国の1200人を超える考古学者、博物館長、歴史家たちが、先住民の遺産が破壊されるとして反対を支援する表明を行いました。
ラドンナ・ブレーブブルブル・アラードのインタビューが行われたのは、この判決が出る直前でした。判決を待たずに、建設会社はこれ以上の調査を不可能にするかのように聖なる土地にブルドーザーを入れ、破壊を開始しました。思いあまって「私有地」にはいり抗議しようとした人たちを、建設会社の警備員たちは暴徒扱いし、ペパースプレーをかけ、犬をけしかけたのです。この時の映像がソーシャルネットワークで広がり、反対運動は多くの人たちの知るところとなりました。
以下は、インタビューの抄訳です。

勘違いの虐殺


ラドンナ・ブレーブブルブル・アラード152年前の今日、ホワイトストーンの虐殺が行われました。キャノンボール・コミュニティの住民はこの虐殺の子孫です。私たちは、虐殺を生き延びた人々なのです。アメリカの人々は忘れ去っていますが、虐殺が起きたのです。私たちはこの時期には、どうやって生き延びようかと考えて過ごします。当時、私たちは、私たちは先住民の別の部族と間違えて殺されました。1863年にダコタ戦争が起こり、米連邦政府は武装部隊を結成して、イサンティ族、サンテー族に攻撃をしかけました。
93日の朝、私たちの部族は、毎年、この時期にはそうしているのですが、集結ていました。収穫の時期だからです。果物と野菜が実り、バッファローを集める時期でもあります。人々が集まって儀式を行い、バッファロー狩りが行われます。冬の間の肉を準備するのです。その日も、ホワイトストーンでは、そんな集まりが開かれていました。4000人近い大群衆が一堂に会するめったにない機会です。交易には部族全員がやって来ます。バッファローの皮をなめし、乾燥肉を仕込み、旧交を温め、親族が生まれ、婚姻が行われます。こうしたすべてがこの野営地で行われたのです。そんな時に兵士がやってきました。私たちの指導者は、こう言いました。「これまで我々は白い人たちと言い争ったことはない。いつも平和を保ってきた。協定を結んだこともない」。人々は集まり、こう言いました。「白い旗を掲げれば、尊重して話し合いがもたれると聴いたことがある」
エイミー・グッドマン:あなたのおじいさんもその中にいたんですね?
ラドンナ・ブレーブブルブル・アラード:ええ。祖父は呪医でしたから。タタンカ・オヒキタ(勇敢なバッファロー)という名でした。「勇敢なバッファロー」は、酋長と一緒に兵士たちと話し合いをしに出かけました。兵士たちは彼らを取り囲み、戦争捕虜にしほかの人たちから引き離しました。皆はそれを見守っていましたが、私たちはこう教えられていました。敵がやってきた時には女子供を全員、真ん中に集めなさい。兵士たちは住まいを壊し、混乱の中に入ってこようとしました。女たちがまず最初にやったことは赤ん坊を犬や馬にゆわえつけ、大声をあげて犬や馬を追い立て、野営地の外に出すことでした。それからできるだけのものかき集めて、走って逃げ始めました。
ホワイトストーンの野営地は、峡谷になっています。兵士たちは峡谷に向かって降りてきました。奇妙なことに日没と共にやって来たのです。兵士たちは峡谷の頂上に来て、峡谷の中にいる女子供たちを銃で撃ち始めました。私たちの戦士の一人は人々が逃げ続けられるよう正面に立ちふさがりました。夜のとばりが降りてくる中を、私の祖母のナペ・ホタ・ウィン(灰色の手)は、走って逃げようとしましたが、腰に鋭い痛みを感じて、倒れてしまいました。


阿鼻叫喚の中を生き延びた祖母

エイミー・グッドマン:まだ、子供だったんですね。
ラドンナ・ブレーブブルブル・アラード:ええ、9歳でした。倒れたまま、一晩中「イナ!イナ!(ママ!ママ!)」と叫びましたが、答えはありませんでした。あたり一面から人々の泣き叫ぶ声、死にゆく人たちの歌が聞こえました。陽が上るとが何が起きたかすべてが見えるようになりました。兵士が2人やって来て祖母を抱き上げて荷馬車に乗せました。なぜだか私にもわかりません。傷ついていた他の人たちは皆、殺されたからです。祖母の命をなぜ助けたのか、謎です。兵士の中にはすわって鍋のそこをつつく者までいました。兵士たちはありとあらゆるものを集めて、火をつけました。私たちの食べ物、住居、すべてに火をつけたのです。
祖母は、荷馬車に横たわったまま、兵士が来て犬や赤ん坊、馬、傷ついた人々を殺戮するのを見ていました。兵士は私たちの財産―テント、肉、毛皮、すべてをかき集めました。あまりにも多くのバッファローの肉が焼かれたため獣脂が川のように流れ、小川に注ぎこみました。逃げた人たちは3~4日、走り続けましたが、兵士は追跡し殺害しました。部族の中には川を渡ってここにたどりついた人たちもいました。当時は川幅が狭かったので、渡れたのです。兵士から逃れるため、こちら岸に渡ったのです。
私たちがいつも言うことですが、人々は私たちを殺したことを忘れてしまいました。でも、私たちは彼らが狙っていた部族ですらありませんでした。間違えて殺されたのです。彼らは私たちの酋長たちを捕らえ無理矢理、川を渡って連行しました。ボートに乗せてクロウクリークの戦争捕虜キャンプにつれて行きました。祖母もまた、そのキャンプにつれて来られたのです。キャンプで人々がどんなひどい目に合わされたのかは、調査が必要です。

仕掛けられた洪水

1870年に人々は釈放され、川の東側に戻り新しい暮らしを始めました。1873年に陸軍が来て私たちをかり集め、川のこちら岸につれてきました。その時に人々は、OK、これで自分たちの暮らしを再開できる。もう一度、やり直せると思いました。私たちの部族の人々はコミュニティを築き始めました。もう一度、生き始めたのです。祖母から聞いた話しですが、1940年代には、私たちは自給自足で暮らしていました。自分たちの庭園に作物を植え、自分たちの家畜を飼っていました。コミュニティの全員が自分の家を持っていました。
ところが1948年になるとピック=スローン法が作られ、陸軍は私たちの川上と川下にダムを建設すると決めました。川下にオアヘ・ダム、川上にサカカウェア・ダムです。私たちには保留地が指定され、軍がやって来て、私たちは自分の家から移動させられました。家は接収され、低収入住宅地に移動させられたのです。
エイミー・グッドマン:数百万エイカーが失なわれましたね?
ラドンナ・ブレーブブルブル・アラード:ええ。.
エイミー・グッドマン:保留地から。
ラドンナ・ブレーブブルブル・アラード:コミュニティ全体が失われました。コミュニティ全部が移動させられたんです。「あなたの祖父母がそんな目にあったんですか?」と聴かれますが、いえいえ、これは私自身の体験です。木々や森をいまでも覚えています。ここまで降りてきて川から水を汲んで飲んだことを。家まで水をホースでつないでこの水を飲んでいたのです。この水と共に暮らしていました。ここには大きな庭園がありました。ここが私なんです。大昔のことではありません。私自身の体験です。
彼らが来て、洪水を起こしたのです。水があふれ森のすべてを失いました。私たちの薬、私たちが植えたものすべて、私たちの暮らしを包んでいたものすべてが奪われたのです。私の世代、そして私より上の世代の誰かと話をすれば、私たちの声に悲嘆を聴くことでしょう。なぜなら、私たちはいまでもまだ、この地が失われたことを悲しんでいますから。私たちは丘の頂上に移動させられましたが、そこの土壌はまるで粘土のようでした。もう庭園を造ることはできません。木を植えることもかないませんでした。以前、やっていたことをやり続けることはできなかったのです。
人々は住み慣れないコミュニティに移されました。いまでは低所得者用の住宅プロジェクトに入れられ、持ち家にすることはできません。私たちのコミュニティは劇的に変化してしまいましたが、私たちは「大丈夫。私たちは生きのこる」と思ってやってきました。陸軍工兵司令部がやって来たとき、地域ではビジネスが行われていました。店やレストランがありました。陸軍工兵司令部と米連邦政府はこうしたビジネスをすべて買い取りましたが、ビジネスが戻ってくることはなく、再開発も行われませんでした。そのため、私たちにはもうインフラがまったくありません。ガソリンスタンドや店などがまったく無いのです。ビスマルクやマンダン、モーブリッジの町まで出かけていかなければなりません。経済インフラが取り上げられてしまったのです。

再びすべてを奪われて


私たちはもう一度、ゼロから始めました、インディアンの人々には私たちのやり方があります。私たちは力を合わせます。皆が持てるものを分かち合うのです。生き延びようと、私たちはまたゼロから始めています。私たちはすべての戦争を闘ってきたことをとても誇りに思っています。私たちのひとりひとりは、毎年、目をさまし立ち上がり家族の軍での歴史を語ります。私の祖父はらラコタの暗号通信者で、先住民はアメリカ市民ではないにも関わらず第一次大戦でシルバースター戦功賞を受賞しました。伯父のジョンは第2次大戦、父は朝鮮戦争、私の兄弟はベトナム戦争に従軍しました。いとこたちはその後に起きたいずれかの戦闘に参加しています。誰もが最高の勲章を得ています。私たちはアメリカのためにできる限りの貢献をしてきたのです。
それなのに、私たちの存在をまったく無視した、このパイプライン建設の話を聞かされました。ダコタ・アクセスの地図を見れば私たちのネーションをまったく認めていないことがわかります。地図から抹消されているわけではなく、保留地の境界線だけは引かれています。でも、私たちはいないも同然です。何の相談もありませんでした。パイプラインは保留地の境界線から500フィート(150メートル)離れています。でもパイプラインが壊れたら―壊れるのは目に見えています―2秒で保育園に5秒で小学校に達します。45分後には、私たち住民全員の水源を汚染してしまうのです。
私たちがなぜアメリカでゴミにような扱いを受けるのか、理解できません。私たちは最善を尽くしています。ずっとここで暮らしてきました。ここは私たちの土地です。自分の土地で暮らすのに、なぜ、闘わなければならないのでしょう。何度も何度も。私たちは自分たちの暮らしを始めようと最善の努力をしています。なぜ?私は誰も傷つけないし、自分のコミュニティのために最善の努力をしてきました。なぜ、私たちを生きさせてくれないのでしょう。私たちはこの土地を愛しています。でも、半分くらいの時間は、つらい気持ちを感じています。この土地を愛することをつらいと感じさせられるのです。

水を救うために


でも、何よりも大切なことは、私たちが水を愛していることです。毎年、私たちの部族は犠牲を行います。4日間、水を飲まずに過ごすのです。水がどんなに大切かを思い起こすためです。みなさんにうかがいます。水無しで4日間、過ごせますか?3日目には、身体ががたがたになり始めます。どんなに大事か、日々、思い起こされます。水は命(say mni wiconi)なのです。水を飲むたびにわたしたちは、「水は命」だと言います。水無しには生きられません。水がどんなに大切か、アメリカがなぜ理解しないのか、私にはわかりません。ですから、私たちに選択の余地はありません。立ち上がらざるを得ないのです。何が起ころうと私たちは立ち上がり、水を救わなければならないのです。
 (2016©Hideko Otake)

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