2017年11月6日月曜日

「いまさら、殺される覚悟なんかしてたまるか」― 謝花悦子さん(伊江島 わびあいの里)

謝花悦子さん、ジャーナリストのジョン・ミッチェルさんと。わびあいの里で。

NHKの力作ドキュメンタリー番組「沖縄と核」を伊江島で見た。
 1950年代、冷戦と米ソの核開発競争が進む中、沖縄がアメリカの核基地化されていったこと、1950年代末の米海兵隊の沖縄への重点的な配備・移転の裏には米軍の核戦略があったこと、1950年代半ば、沖縄はアジア最大の核弾薬庫と化したこと、備蓄された核兵器を攻撃から守るため核弾頭をつけたミサイルが配備されたこと、1959年6月、那覇で核ミサイルの誤射事故が起きたが闇に葬られたこと、日本政府が知らぬ存ぜぬをきめこんだことなどなどを、新たに入手した機密文書や、現場で当事者だった元米兵の生々しい証言をもとにじりじりと検証していく迫力ある番組だ。



 
 一歩間違えれば、沖縄が吹き飛びかねなかった背筋が寒くなるような核誤射事故の証言もさることながら、いたたまれないのは、日本政府の態度だ。1960年1年の日米安全保障条約改正に先立つ事前協議で、核持ち込み禁止に関し、「沖縄を含まない」「米軍基地については関与せざる」として沖縄を切り捨てた文書、さらには61年、核巡航ミサイル「メースB」の沖縄配備に際し、手続き上、配備前の発表が必要とするアメリカに対し、事前に発表すると日本政府が責められる、配備後に発表すれば「後の祭り」としてすり抜けやすいとアメリカの国務長官に泣きついた小坂善太郎外務大臣の発言記録までつきつけられると、みっともなさすぎ情けなく、沖縄にひたすら申し訳なく、はらわたが煮えくりかえる思いがする。しかも、国民を欺し見下す日本政府の体制は、いまのいままで続いている。

 わびあいの里でこの番組の録画を見せてくださった謝花悦子さんは、当然、怒っていた。「アメリカは、沖縄を核のミサイル基地にすると決めた。日本政府が知らなかったとは言わさんぞと瞬間的に思った。アメリカの政策を聞いただろう。知っただろう。日本の国は、沖縄を戦場にし犠牲にした。その沖縄を核の永久ミサイル基地にすると知ったとき、日本の国は、ちょっと待て、国として許さないぞというべきじゃないか」「裁判も法律も、この沖縄では通用しない。それが今日まで続いている」「政治家も人間だと思いますが、人間として必要なものをもっていない。人間として必要なものとは、良心、誠意。それがまったくない。いまの現状をみても、沖縄県民、あるいは国民を人間とはみていない」「殺される覚悟をしないといけないのか。いまさら、殺される覚悟なんかしてたまるか、と思いましたね」

*アメリカの核戦略の犠牲になった伊江島

 謝花さんがここまで憤るのも、無理はない。謝花さんが共に歩んだ阿波根昌鴻の平和運動の発端となった伊江島での米軍による強制的土地接収開始が、アメリカの核戦略と連動しておきていたことをこの番組は、明らかにしていた。



 1950年代半ば、文字通り「銃剣とブルドーザー」で、反対する住民をしばりあげ、家を焼き払い、ブルドーザーで畑をつぶした米軍の暴挙は、伊江島に爆撃演習場を建設するのが目的だった。無力な農民でありながら阿波根さんたちは、非暴力・人間としての徳を説いて優位にたちアメリカに教え諭すという崇高なアプローチと知恵の限りをつくした戦法で沖縄本島や日本全国の庶民の共感を得た。生涯、闘いを続けた阿波根さんの抵抗・平和運動の詳細は、名著『米軍と農民』に詳しい。



 番組はまた、伊江島の爆撃上で行われていたLABS、すなわち超低空で水平飛行し、爆弾投下後に機体を急上昇させる演習が、原爆や水爆の模擬爆弾が投下する訓練だったことも明らかにした。そんな中、事故が起きた。1959年、土地を取られて耕作ができなくなったため、畑に落ちた爆弾を拾ってスクラップにして売ることで生活の糧をえていた青年が2人、爆死したのだ。彼らを死に追いやったのが、水爆の模擬弾だった。



 わびあいの里の反戦平和資料館には、阿波根さんたちの活動を記録する膨大な資料が保存されている。そのため、この番組制作中に、NHKの担当記者が訪れ、阿波根さんが遺した資料と取材で入手した文書や証言との照合・確認を行った。当時伊江島で起きたできごとと新たな資料のつじつまがぴったりと合い、これまで見えなかった背景が立体的に浮かび上がってきたという。

*再び基地強化に直面する伊江島


 が、なによりの問題は、伊江島でいま、基地問題が再燃していることだ。

琉球新報2016年12月2日付けの記事

 2002年、阿波根さんを101歳で失った伊江島は、いままた、米軍の軍備強化の危機にさらされている。SACO(日米特別行動委員会)合意後、伊江島補助飛行場にパラシュート降下訓練が移転されたのが、1998年。この訓練は、2012年のオスプレイが沖縄に配備されると激増し常態化されるようになった。さらに2016年8月になると、飛行場内で強襲揚陸艦の甲板を模した「LHDデッキ」の拡張工事が始まった。LHDデッキの建設は、オスプレイと最新鋭ステルス戦闘機 F35の離着陸訓練を行うことを目的としており、これにより着陸帯の面積が一挙に2倍に拡大されることになった。


 
 だが、この工事は大幅に遅れた。あまりにも多い不発弾の存在が原因だ。「(戦争で)木も家もなくなって全滅した島です。不発弾があるのは当然です。遺骨もまだいっぱい埋まっている。あれだけの戦場であったところをさらに戦場とするために軍備をする。異常ですよ、沖縄は」と、謝花さんは言う。

 飛行場に近い真謝・西崎両区の畜産農家では、オスプレイや垂直離陸型攻撃機ハリアーの爆音で牛の死産が相次ぎ、また、工事が始まると、黙認されてきた演習場内での土日の牧草の刈り入れもできなくなった。F35の推進力はハリアーの3倍と言われ、F 35 の訓練が始まれば畜産に甚大な影響がおよぶのは間違いない。

*基地容認派が9割


 ところが、である。「伊江島は静かなんですよ」と謝花さん。辺野古と高江は新基地反対で騒いでいるけれど、「ここはひと声も出ない。真謝・西崎の区長は反対してますが、村議会では議員10名のうち、革新はたった一人」。


 
 何が起きたのだろう。1957年には島の面積の63%をも締めていた米軍用地は、1972年の本土復帰までには半分近くが返還された。だが、今でも35%は、米軍が使用している。そんな中、1989年に村がハリアーの訓練場を容認すると、ご褒美とでもいうかのように日本政府は交付金を出し村のインフラ整備が急速に進んだ。毎日新聞の報道によると、伊江島の軍用地料は、年間約15億円に達している。



 「この島は、90%以上が契約地主になったから、もう基地は容認。契約の金がなければ、子供を大学にもいかしきれない、ローンも払えない、生きることができないという状態になっている」「金さえあれば生きられるというような時代ですから。阿波根みたいに、土地は人間が生きるために必要であると言ってがむしゃらにすべてをかけた時代と立場とは、違うんです。全然、違うんですね、いまは」

 「農業で、鍬や耕耘機なんか、この島では使いませんよ。耕耘機は、歩いて作業するから難儀だ。全部、トラクターにすわって農業をするんです。たばこや花を栽培していますが、機械会社に前借りです。機械会社と農薬会社への奉仕ということになっている。農薬も消耗が多い仕組みになっていて、規格に書かれた通りにどんどん使っていく。100%前借で、余裕がないんです」。これが、島の現状らしい。

*辺野古との連帯


 そんな中、「サマーキャンプ・学習会 in 伊江島」が、2016年から始まった。言い出しっぺは、山城博治さんだ。––沖縄の基地反対運動は、伊江島から始まった。阿波根さんたちが米軍に非暴力で立ち向かい、土地を取り戻そうとしたことが原点。ところが、本土から辺野古や高江にすわりこみに来る人でも、その史実を知らない人が多い。伊江島で何が起きたのか、非暴力の闘いとはどういうものか、それを学んで生かそうじゃないか––工事が進みながら声も出せないでいるいまの伊江島、そしておそらくは阿波根さんの後継者である謝花さんを勇気づけようという思惑もあったのだろう。わびあいの里に1泊する泊まりがけの現地学習会がスタートした。1回目の去年には、計画した博治さんが拘留されてしまっていたが、今年は博治さん、辺野古の島袋文子おばあも参加し、とても濃い内容の学習会が実現したという。



 ところが、「警察が来たんですよ」。夜の9時ちょっとすぎ。わびあいの里は、住宅地からはずれた場所にあり、まわりには人家はない。「警察官がふたり来て、周辺の邪魔になるから、止めてこいと言われた」という。真夜中でもないし、人家もない。集まっていた人たちが「ああ、やっぱり」と言い、「あ、また始まるんだな、と私は思うようになったんです」と、謝花さんは言う。

 「作る前に3年、作ってから3年、反戦平和資料館には、ずっと警察が立ち続け、はいり続けでした。それから30年たって、もう何もないと思っていたんだけれど。博治さんが動いているから。この島は、行政はじめ基地容認ですから。伊江島で全国の人たちを集めてこういうことをやられては困る、基地に反対されたら困るということで、すぐ警察が来た。でも博治さんから、警察であろうと、門の中に無断ではいってくるのは、法律違反だ、警察であっても事前に了解をとる義務があると言われて、そういうことなんですかとびっくりしました。もう何十年も前から、警察であろうが何であろうが、慣れてはいますけれども、また、あらたな覚悟をしておかんといけないなあ、堂々とした体制を作っておかんといけないなあと思ってるところなんですよ」。

*「理解は力なり」


 戦争中、6歳の時に病を患いきちんとした治療も受けられずに身障者となった謝花さん。現在78歳。「だんだん身体も不自由になった」というが、畑も家の中も電動椅子で動きまわり、あくなき活動を続けている。


 「こんな小さい島で、孤立した資料館でありますけれども、私は自信をもっています。阿波根の一生を見てみると、どんなことにも道理にあわない生き方じゃなかった。道理にあう生き方と闘いをしているという自信がある。博治さんも、ここが孤立的な立場になっているから、ここを守らないといけない、と応援してくれる。高江や辺野古の代表の人たちも、10年前から1か月に1回、あんな厳しい中ですけど、1泊2日で援農にみえるんです。その働きや誠意をみると、ひよっておれないと思うんですよ。」
 

 「阿波根から『人間は死んだら3年間は名前が残るけれども、そのあとは消えていく』と言われ、私は『ああ、そうですね』と言いました。ところが、(亡くなってから)15年になりました。年々、出逢いは多くなっています。阿波根の非暴力と道理でもって闘った成果が遺されているということもありますけれども、まわりの皆さんが阿波根を理解して、名前をいかしてもらっているという風に私は思うわけです」


 「伊江島の闘いがひどく、自殺か発狂しかないかなあという時代がありました。その時に阿波根に言われたことばが、『理解は力なり』でした。人間は理解をすれば信頼する。信頼すれば尊敬する。尊敬すれば力になる。もうこの状況を乗り越えることは無理だと私なんかも思ったときに、言われたんです。それを私は『なるほど』と納得しています」
 「たとえ、この日本、沖縄にひとりの理解者がいなくても、世界には必ずいる。たとえ一人になっても、世界の理解者とともに最後まで闘うと、自信をもっていわれたことばなんです。言われた通り、みなさんに理解してもらい、お会いでき、そのお働きを教えてもらっている。15年間、名前が生かされているということは、みなさんの理解が年々、深まっていることだと私はわかっておりますので、もう感謝だけです」。

*『真謝日記』いよいよ刊行

 謝花さんが、いま意欲的に取り組んでいる企画がある。『真謝日記』の刊行だ。米軍の土地強制接収が始まって1か月半の1955年4月から7月まで、生活の手段を奪われた伊江島の農民たちが、闘いをゼロからどうやって創りあげていったか、大学ノートに克明に記された現地記録だ。阿波根さんが遺した膨大な記録をアーカイブス学が専門の安藤正人さんが15年間にわたり毎年2回ボランティアで調査を行い発見した貴重な資料。数回にわけての発行に必要な資金30万円をクラウドファンディングで募集し、2017年10月末に第1号が刊行の運びとなった。

*カメジローとの友情


 おりしもドキュメンタリー映画『カメジロー』がヒットし、これまで特に本土では知る人もわずかだった瀬永亀次郎が気骨の政治家として突如、脚光を浴びるようになった。カメジローさんが沖縄の抵抗する政治家の代表だったとしたら、抵抗する庶民の輝ける希望だった阿波根さん。阿波根さんも、もっと知られて当然の偉人なのだが、このふたり、やはり強いきずなで結ばれていた。
 
 「(瀬長さんと)阿波根とは、一生涯、一心一体でした。何の相談もまず阿波根に声がかかり、阿波根も何でも瀬長さんに真っ先に相談していました」

 「瀬長さんのような政治家は後にも先にもない。本当にたいした人でしたよ。沖縄協同病院を作ったのも、発想したのもあの人なんですよ。終戦直後の闘いの中で胃だかなんだかを手術しなければならない病気になった。大きい手術をするには米軍の病院しかないんです。軍病院なんかに行ったら、直すどころか殺されるだろうと。結局、軍病院で治療されたとは思うんですけれど、自分たちで病院を作る必要があるんじゃないかと。沖縄の協同病院は順調で各市ごとにできた。いま、沖縄は医者が不足していて、病院はいくらあっても足りないくらいの時代になっている。国民や県民のために何が必要で何が不足か、それを考え実行するのが政治家だと思う。いまの政治家は、そういうことをわかりもしないんじゃないですか」

 「亡くなった大田(昌秀)さんも人ができないことをずっとやってこられた。平和の礎も敵味方なく戦争で殺された人を全部おさめる、世界に向けた平和の発信地である沖縄を作りたいという構想だった。知事になってその話をしたら、ひとりもついてこない。とうてい無理、莫大な金がかかる、予算をどこからもってくるんだ、と。でも、3か月で皆が理解するようになった」

 「国民を殺すか、いかすかが政治です。この調子でいけば、滅びる国にしかならないんじゃなかなあと、もう心配しかないですねえ」

 「瀬長さんのような政治家が生まれるのは、もう無理。大田さんのような政治家も。科学が進みすぎて人間性がなくても進めるという世の中のような気がしますね。変わりはてましたよ。世の中は驚くくらい進んでいるけれど、人間が生きる、人間が人間らしく生きるということは、これから先、あり得るのかなあ、と。(問われているのは)人間とはなにか、なんですよ」

(文責:大竹秀子)











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