2015年8月12日水曜日

生録: 沖縄で会った人、聞いた話、知ったこと その1 石川真生さん Part 2 金武の女たちから「開き直り」のすごさを学んだ

写真の力で圧倒しひきつける。「開き直り」の写真家 石川真生は、こうして磨きをかけられた。

初めての写真集『熱き日々 in キャンプハンセン』(1982)。

 『熱き日々in キャンプハンセン!!』

石川真生:これは私が昔、写真家の比嘉豊光さんと共著で出版した『熱き日々in キャンプハンセン!!』という写真集。前半は金武の女たちを撮った私の写真で、後半は比嘉さんが私を撮った写真。私の最初の職場は、コザ十字路の黒人街だったんだけど、だんだんコザが寂れてきたので金武に移った。昼は、黒人米兵のバーのホステス仲間の部屋に遊びに行き、黒人やまわりの女たちの日常生活を撮った。構えて撮るわけじゃなくて、自分自身も金武の女の一人として、生活を楽しみながら撮っていた。

『熱き日々in キャンプハンセン!!』は、金武の女たちへの賛歌。私もそれまでは親との修羅場があったりして、人生を悩んだりもしてきた。だけど、彼女たちの潔さはハンパじゃないの。当時、黒人バーで働き、黒人とつきあってた女たちは、世間から蔑まれ、温かいまなざしはなかったよ。

1970年代半ばに黒人バーで働いてた女の子たちは、そんなに貧しい家庭の子ではなくて、ブラック・カルチャーに触れ、黒人が好きになった子たちだった。だけど、好きだけじゃ、黒人バーで働けない。しがらみだらけのこの狭い島で、家族や親戚や知り合いの干渉や中傷をはねのけて、好きなことをつらぬき通していた。おおらかにのびのびと生きてた。開き直って自由に生きることのすごさを私は彼女たちから学んだの。



    『Life in Philly』 (2010) 。コザのバーで働いていたときに知り合いになり、大の仲良しになった
元黒人米兵のマイロンを尋ねたフィラデルフィア。滞在中に撮ったワイルドな写真集。

1冊1冊 ページを切り取った

――写真集『熱き日々in キャンプハンセン!!』が刊行されたのは、82年。外人バーでの撮影を終えてから5年くらいたってましたね。

真生:比嘉さんに声をかけられて。写真をやってる仲間がみんなで出資しあって、まずは2人の写真集を出そう。次々にみんなのを出そうという計画だったけど、はじめでこけてしまった。

――いろいろあったわけか。

真生:私の友人二人が、自分たちの写真を載せないでほしいと連絡してきたの。でも二人の声を無視して彼女たちの写真を載せたまま本を出版したの。それを知った友人二人に私とグループのメンバー全員が呼び出されて猛抗議を受けたの。二人は「結婚した日本人の夫や家族に迷惑かけたくないから自分たちが載っているページをカットしてほしい」、と申し出たの。結局はその申し出を受け入れてみんなでページをカットする作業をその場でやったのよ。私は「二人に迷惑をかけた事は大変申し訳ない。でもこの本はとってもいい本だし、私は撮った事を後悔してない。ただ、出すに当っての配慮が足りなかった事は反省している」ということは言ったのよ。

だから 一生 写真を撮り続ける

真生:なんで騒動になったかというと、私はこの本を紹介するために東京のテレビに出たのね、朝のモーニングショーに。ちょうど復帰10年目の年だったから、テレビ局が復帰10年の沖縄っていうことで特集組んでいた。それで取材を受けたんだけど、私、本が売れるんだったらっていうんで、出たの。私、正直者だから、いろんなことしゃべったわけ。いろんな場面撮らしたわけ。本の後半には、比嘉さんが撮った私と彼氏とのベッドシーンもあった。自分は公務員の子供だっていうこととか、自衛官と結婚してるだとか、2歳の子供がいるとか、なんちゃらかんちゃら素直にしゃべったの。それがそっくりテレビに出たわけさ。

『石川真生写真集 日の丸を視る目』(2011)は、「日の丸の旗を使って
あなた自身を、日本人を、日本の国を表現してください」
――生まれも職業も思想信条も異なる人びとが表現した、それぞれの〈日本〉。
『女性カメラマンがとらえた沖縄と自衛隊』(1995)。足かけ5年、
「反自衛隊」を名乗りながらも陸・海・空自衛隊のふところに飛びこんだ。
結局、旦那は自衛隊の職場のみんなに妻である私の過去がばれてしまった。しかも私のベットシーンの写真までも出てしまった。激怒した旦那がテレビの生出演のために東京に行っていた私の帰りを待ち構えているから、「自宅に帰るな」という親からの連絡で私は逃げ回ったわよ。

周囲を巻き込んでの大変な修羅場があって、それゃーもう大騒動だった。結局、親が間に入って結論を出す事になったの。私は「写真は絶対やめない」と言い、私の親に「娘をとるか、自衛隊をとるか決めなさい」と言われた旦那は、「妻をとります」と言って、自衛隊を辞めてしまった。

その後、旦那は田舎の九州に戻って、結局は私が子どもを引き取って離婚したの。私は旦那の人生を狂わせ、友人を失ってまで写真を選んだ。責任の取り方は、一生、私が写真の仕事をやり続け、発表し続けていくことだと思う。途中でやめてしまったら、「そんなに簡単にやめてしまう人に自分たちは人生を狂わされたのか!」てなるじゃない。だから撮り続けるの。

封印の30年

真生:私、その後で友人に、「このネガの束、全部預けるね」と、渡してしまったの。あの時は、友情を傷つけた私にできる最高のお詫びが私の命でもあるネガ全部を預ける事だったの。

今だったら全部渡すなんてそんなばかなことやらないわよ(笑)。彼女たちは二人が写っているカットだけ渡してほしいと言っていたんだから。

でもね、言ったわよ。「撮ったことは後悔してない。だけどあんたたちを傷つけたのはよくわかる。本当に申し訳ない。あんたはこれを捨てちゃうかもしれない。だけど、これはほんとうにいい写真なんだよ」と言って預けたわけ。

ネガは、もうないと思っている。返してくれとも請求もしてないしね。これで全て失ったと思った。それがね、30年たって実は親父が大事にとっておいてくれたプリントが出てきたの。

『熱き日々 in キャンプハンセン』から、復刻新版までに30年の月日が流れた。
――誰がとってた?

真生:父親が。

――真生さんの?

真生:その写真の束をね、箱にとっておいたわけ。当時の焼きのへたくそなプリントがね。すっかりあきらめていたのに。もう全部ないと思ってたのに。それが、当時のプリントが1箱全部、出てきたの。うちの親父が手の届かない棚の上に置いて保管していたのよ。

暮れの大掃除のときに娘がなんかあるからちょっと見て、捨てるかどうか調べてよというから開けたら、いっぱい出てきたの。30年後にだよ。もうびっくり!感激のあまり大泣きしたわよ。「なくなったと思っていたバーバの一番大事な写真が出て来た!」って叫んだら、娘と孫もいっしょになって喜んでくれたわよ。

封印してから30年たってから出て来たんだよ。その間、ずっと考えていたの。「私はなんでこの写真を封印しないといけないんだろう?やっぱり黒人っていうのが一番の理由なんだろうな。なんでバーで働いて悪いの?なんで黒人を愛して悪いの?」ってね。モンモンとしてたわけ。絶対、割り切ってはいなかったのよ。

プリントが出てきたっていうことは、親父が「もう出していいんだよ」って後押ししてくれたような気がしてね。女の子たちが何か言ってきたら、ちゃんと話し合おう。対立ではなくてね、私がどれほどこの写真が好きで、どれほどこの世界にプライドをもっていいんだっていうか、卑下することはないんだ、隠すこともなんにもないんじゃないかって言いたくて。それで発表することを決めたの。新しく作った本を出して、展示会もしたのよ。多くのマスコミが宣伝してくれたので、関係者が来てもいいように、その会場に私、ずっといたのよ。

私が封印してしまったら・・・

真生:ということで、いろいろ、いろいろあったから、今度新しく作った本(『熱き日々 in Okinawa』)の中には、自分が責任取れる私が撮った写真だけを出した。ものすごいプライベートな写真なんだけど、ちゃんと見たら、私が覗き趣味じゃなくて、街の女たちにどれほど愛情を持っていたかが分ってもらえると思う。

――ああ、もちろん。

真生:黒人だとか、白人だとか、そんなこと、どうでもいいわけよ。日本てさあ、単一民族だっていいたがる民族だから。今でこそ米兵はいろんな国からやってきた移民が大勢入隊しているけど、あの頃はメキシコ人もいたけど、ほとんどが白人か黒人って感じだった。しかも「黒と白は、白が上」みたいな偏見が沖縄の中でもあったしね。うちの親もそういう差別的な発言してた。それが今でも残ってるさーねえ。

前ほどひどくはないけど。それがもっとひどい時代だったからね、あの頃は。私はそれを感じたしね、視線を。那覇の街で黒人と歩いてたら、なんか上から下までジロジロ見るような目線を感じたわよ。「黒人はダンスとセックスがうまいだけで貧乏人だろう」と、そう言いたげな目をしていたわよ。私、全然平気だったけどさ。

―――平気だった?

真生:平気だったよ。私はなんとも思わなくて、むしろ自慢してた。「かっこいいだろう、私の彼氏」みたいな。私、面食いだから、男前としか一緒にならんかったからさ。何やってもいいんじゃないか、誰を好きでもいいんじゃないか。昔からそういう性質だったんだけど、この時代に私の性格、価値観が作られたと思う。街の女たちといっしょにいたことによってね。

みんな、普通の子たちだよ。だけど好きで黒人の世界にいた。親に内緒の子もいたわけよ。黒人と結婚してアメリカに行った子もいたし。日本人と一緒になったのもいた。いろいろいるんだけど、でももう、誰とも連絡とれない。誰の行方もわかんないんだよ。でもね、出てきたらちゃんと話して、その人の事情を理解できたら、その人の写真は外すことに決めたの。

後は世間が何言ってもちゃんと私、反論できるから。30年かかったけどね。私は自分が生きてる間に封印していた街の、女たちの、黒人兵の写真を出すことができた。自分が責任取れる間にね。だから本も作り直して出したの。だって私が封印するってことは、あの街がなかったことになるんだよ。あの街がね、コザの照屋がね。金武の黒人バーがね。

―――わかる。

真生:コザの白人街のことはよく歴史に出るのよ。ところがね、照屋はね、黒人街のは検索したらさ、ヤマトの男のレポーターがね、「かつて黒人街があった。売春街だった」という書き方をしてるわけ。ま、彼もなにかの情報で得たんでしょうね。役所が出している本にも黒人街の写真が載ってるけど、白人街よりは圧倒的に少ないわけ。黒人専用の街だった、というだけで終わっている。

バーのママさんとかパパさんとかはさ、客の兵隊を撮ったりして、店の壁に写真、貼ってたよ。だけどそれはものすごくプライベートなことで、私のように意識して撮ってるわけじゃないから、写真集とかっていうのとは別だよ。私は意識して撮ったけれど、まだ若いからさあ、むしろ男と女の世界の恋愛にのめりこんでいきながら撮ってた。でも写真はしっかり残しましたっていう感じかな。

私あれ、まったく計算してないよ。日常生活を日記をつけるみたいにカメラを片手に持って歩いて、なんでも撮りまくったから。

『石川真生写真集 FENCES,OKINAWA』(2010)。沖縄を撮ったあるいは撮り続けている写真家シリーズの第5巻。フェンスの外に一時の安らぎを求める兵士と、フェンスを臨む歓楽街で踊るフィリピン人・・。フェンスに分断された沖縄に生きるさまざまな人々のソウルをとらえた写真集。

私も街の女のひとりだった

――でも、真生さん、自分が撮られた写真が残ってるっていうのも、いいことでしょう?

真生:もちろん、もちろん。あのときは私も街の女のひとりだからさ。それに私、自分の写真見るの大好きだから。ああ、こういう場面、よく撮れたな、上手だなとかさ。こういうところ、よく撮ってくれたな、とかいっぱいあるよ。

私がこの中にいるわけよね。自分が撮られた写真の中に、女の子が撮ってくれたのが何枚かある。みんなと同じような生活してたから。私は撮られても平気、全然かまわない。男と女の「まさに恋愛してます」がいっぱい出てくるじゃん。

――でも、どうやって撮ったの?

真生:なにが?

――ベッドの中とか。

真生:それは比嘉さんが「食事をするように、男と女は当然セックスをする。僕はその場面を撮りたい」と、申し出たの。私も自分で女の子の裸を撮ってるから、申し出を拒否できなかったの。撮りたいという写真家の性(さが)はよく分るから。だから嫌がる彼氏をね、「協力してあげよう」と言って説得したの。


こんな写真集も。『沖縄芝居:仲田幸子一行物語』(1991)は、沖縄芝居の喜劇の女王・仲田幸子率いる「でいご座」を追いかけた12年。『港町エレジー』(1990)は、1983年、一人娘を抱えて那覇市の安謝新港のすぐそばで居酒屋を経営していたときに撮影した港町の男たち。

―――「嫌がる彼氏」だったんだ。

真生:うん。やっぱりいやさ。でも説得して、やらせをやったわけ。あれ、ほんとにやってるんじゃないの。私、演技上手だから。

―――すごく上手(笑)

真生:やってる最中に撮影させるほどは、変態じゃないよ、私は。

―――はい、はい。

真生:やらせ。別になんとも思わんよ。ただ旦那はそれをテレビでみんなに見られて逆上した。これが普通の感覚さね。私が普通じゃないから彼は不幸だったのよ、私と一緒になって。「なんであんた、私が黒人といっしょにいたってわかって一緒になったんじゃないか。私のすべてを受け入れると思ったのに、こんなに普通だったとは思わんかった」って言ったんだよ。傲慢でしょ。旦那に自分の価値観を押し付けて、彼を理解しようとしていなかった。彼の人生を狂わせてしまった。ひどい女だよ。

『森花:夢の世界』(2014)。「『まおさん、森花ね、こんな夢見るんです~と、吉山森花ちゃんが話してくれた。それはとても奇妙で、過激で、セクシー。聞いててゾクゾクしてきた。森花、その夢、写真にしよう!森花が夢を再現して、それを私が撮ろう!」ってことで実現した写真集。
あの時 へこまされなかったら

真生:私が全然まだテレビに慣れてない頃で、特にヤマトのマスコミが、いかに生き馬の目を抜くか、スキャンダル好きか見えてなかったわけ。日本に復帰して10年目で、まだ日本とそんなに接触してる時期じゃなかったから。「うん、うん、よく分る」て相手は、さも写真家としての私を理解してますってみせながら、実は「あ、しめた。こいつはおいしいネタだぜ」って思ったんだろうな。

―――だろうね。

真生:あんなにやられるとは思わなかったよ。

―――ただ、興味本位。

真生:そう。私はさ、同じ撮ってる側だから、撮ってるからわかるだろうっておおざっぱに考えちゃったわけよ。テレビは映像さね。私も映像さ。映像を撮るっていうことの心はわかるだろうと、安易に考えちゃったわけ。

―――商売だったわけだ、向こうは。

真生:うん。そんなシステムとは思わなくて(笑)。今だったらもちろんわかるから、相手の言いなりではなくてきちんと対応できるけどね。まだ、マスコミ処女だったの。

でもまあ、結果的に今があるから、別にそれでよかったと思うよ。トラブルがなくスムーズにいってたら、私、天狗になってたかもしれない。ちやほやされて。結構、これ衝撃的で、いろんなとこで当時とりあげられたから。

だから、ひょっとして、天狗のままでいまも生きていたかもよ。なんでも平気で出して、人の心がわからない、傷つくのがわからない、有名になったことだけをうれしがる女になってたはず。そういう意味でへこまされたのは、いいことだと思う、早い時期にね。

真生:この本を出したことも、この世界にいたことも、私は一切、後悔してない。外人バーで働く女たちを卑下する人もいる。外人バーで働く女=売春婦と勝手に決めつける人もいる、それは全くの偏見、勝手な思い込み。人を上から目線で観る最悪な価値観。

そんな偏見を私ははねのけたい。街の女たちは堂々と自分の人生を歩んでいいし、誰も他人の人生をとやかく言う権利はないはずだ。そんな事を私は言いたいし、いつも叫んでいる。

私があの頃の写真を再び出す決意をしたのは、「黒人を愛して何が悪い、黒人バーで働いて何が悪い、自由を謳歌して何が悪い」と、狭い沖縄で開き直って生きている街の女たちに共感し、とても大きな刺激を受けたから。

街に入る前から人目を気にせず生きていた私だけど、街での生活で私の「自由に自分のやりたいように、人目を気にせず生きていこう」という開き直りに、ますます磨きがかかったの。

私の写真家としての、人間としての生き方を決定づけた時代だよ。とても私が大事にしている時代だよ。だから声を大にしてあの頃の事を話すんだよ。


  





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