2017年7月10日月曜日

「日本人と間違われて殺された」ヴィンセント・チン:あれから35年

July 10, 2017

文=大竹秀子
ヴィンセント・チン
つばを吐かれたことがある。
真昼間のNY.街を歩いていただけなのに。

相手は、若者とも中年ともいえない年頃の白人の男。数歩後ろにいた私の急ぎ足がそいつの歩調と、ぴたっと合ってしてしまった。後をぴったりつけている感じ。いやーな気分が、私にだってしたのだ。そいつは、振り返り、ぎろりとねめつけてから言った。「おまえのような細いきつね目のやつらのおかげで、なんたらかんたら」。「なんたら、かんたら」が、聞き取れなかった私は、つい「え、なに、な~に?」と聞いてしまっていた。男の目が憤怒で燃えあがり、顔面ねらってつばが飛んできた。

幸いこちらは、左折する瞬間。直進を続ける男のコントロールは狂い、つばは地面に落ちた。一瞬、頭は真っ白け。それから、無性に腹が立った。去って行く男に向かって、中指たてて「ばっきゃろー」と叫んでた。それで終しまい。

だけどあの時、あいつがあいつではなく、私が私ではなかったら、あるいは、あいつはあいつで私は私だったとしても、たとえば、あれが夜で、あたりに誰も歩いていなかったりしたら、まったく違う、恐ろしい結末に終わることだってあり得たのだ。

結婚直前に絶たれた命


この6月、ヴィンセント・チンという、なかば忘れかけていた中国系アメリカ人青年の名を久方ぶりに耳にしたとき、この出来事を思いだした。35年前、デトロイトで起きた殺人事件の被害者だ。あの事件だってきっかけは、ほんのささいなことにすぎなかったはずだ。ヴィンセント・チン、「日本人と間違えられて殺された人」として、当時、日本でも静かな話題を呼んだ人物である。

事件の顛末は、次のように記録されている。1982619日夜、27歳のヴィンセント・チンは、友達3人とデトロイトのストリップ・クラブにいた。2日後に結婚式をひかえ、独身時代最後の「バチュラー・パーティ」。独身男の年貢のおさめ時。結婚後、良き夫になる前、最後に羽目をはずして騒ごうぜ、という夜だった。ささいなことから喧嘩が起きた。相手は、クライスラーの工場で働くロベルド・エベンスと息子(甥を養子にしていた)のマイケル・ニッツ。ニッツも、自動車会社で仕事していたが、つい最近、レイオフにあったばかりだった。口論となり、激高した白人のエベンスがチンに向かって「お前らのような、ちんけなマザー・ファッカーのおカゲで、俺たちが失業するんだ」と言ったとする証言が残っている。

 デトロイトの恨み


「モータータウン」として栄え、全盛期には住民の半数が自動車産業に従事したデトロイトだが、時代は変わっていた。安価で安全、コストパフォーマンスが良い日本車の人気におされ、クライスラーでは、自社製品を減産し、日本産の三菱の車を輸入し、クライスラーのブランド名をつけて販売し、レイオフに拍車がかかった。1982年のデトロイトの失業率は17%。当時、日本の自動車会社は、まだアメリカでの生産を始めておらず、日本は、アメリカの職を奪う、恨み骨髄の相手とみなされた。日本車をハンマーでたたきつぶして気勢を上げる抗議イベントが、人気を呼ぶ。そんな時代だったのだ。



恨みはわかる。が、日本人だからって襲われてはたまったものではない。おまけにヴィンセント・チンは日系ですらなかった。9.11後に、ターバンを巻いたインド系のシーク教徒がアラブ系だと思い込んで殺されたこともあった。ヘイトや偏見は、相手が「~のようなもの」であれば、十分。結局は、うさばらし。似て非なるものの存在など、配慮しようともしないのだ。

その夜、両グループの乱闘となり、全員がストリップ・クラブから追い出された。ここで、一度は散会になった。が、エベンスの腹はおさまらない。住民の9割が黒人をいわれるエリアで、黒人青年に金を払って、チンの行方を捜させた。まもなく、マクドナルドにいる姿をみつけると、野球のバットをもって追いかけ、ニッツがチンを羽交い締めにした。目撃者の証言によるとエベンスは、「まるでホームラン・バッターのようにフルスイングでチンの頭を殴った」。チンの頭は割れ、脳みその一部が地面にとびちっていたと目撃者は証言している。

チンは救急車で病院に運ばれたが、脳死状態と診断され、4日後の623日、生命維持装置を外す形で世を去った。意識を失う前、最後に口にしたことばは、「こんなの不公平だ」だった。

後味の悪い事件だったが、エベンスに相応の処罰が科されていれば、すぐ忘れられただろう。が、とんでもない判事によるとんでもない判決が、司法制度にしみこんだ差別と不公平をあぶり出した。検察は第2級謀殺で起訴しエベンス本人ですら、「刑務所行きを覚悟していた」。なのに、郡裁判所判事は、故殺で執行猶予3年、罰金3780ドルの判決をくだした。人を殺したのに刑務所に行かない!白人判事の言い分はこうだった。「被告は2人とも前科もない。刑務所に送るのは、彼らのためにならないし、送っても社会が得するわけでもない。刑罰は犯罪に対して科されるものではなく、犯罪者に対して科されるものだ」。物言えぬ被害者、遺族への配慮は、ひとかけらもない。

結婚を目前にして殺されたアジア系の青年の命は、そんなに軽いのか。アジア系の人たちがこの判決に衝撃と怒り、怖れを抱いたのも、当然だ。

アジア系がひとつになって声をあげた



アメリカの人種偏見・差別というと、黒人が真っ先に思い浮かぶ。だが、1882年の中国人移民排斥法、1917年と1925年の移民法、第2次大戦中の日系人の強制収容など、アジア系も移民として排斥され、二級市民として差別され、時に下げずまれ、憎まれ、惨殺されることさえある歴史をたどってきた。静かに堪え忍び、模範的市民になることで尊重され、社会の一人前の構成員としてうけいれられようとがんばってきた。

だが、ヴィンセント・チンへのあまりにも理不尽な処遇にアジア系の人々も、堪忍袋の緒が切れた。日本での報道は、「日本人に間違われた」ことを強調するものだったが、アメリカのアジア系の人たちの間に、「日本のせいで割をくった」という攻撃の声は、なかった。むしろ、中国系もフィリピン系も日系も韓国系も、さらにインドなどの南アジア系までもが、「自分たちの問題」として団結した。また、有識者だけではなく、クリーニング店やレストランで働く人など、それまで政治機構や社会機構に訴えかけることなどなかった庶民がたちあがり、いまでいうなら「私たちの命も大切」とばかりにキャンペーンを張ったのだ。

はじめは、公民権系の司法団体の腰は重かった。1980年代だから、もちろん、公民権法は、とっくに成立・実施されていた。が、1960年代に黒人差別との闘いの中で生まれたこの法は、もっぱら、黒人専用の法とみなされていたのだ。

州法がくだした判決をくつがえすためには、連邦法である公民権法が犯されたとして連邦裁判所に提訴する必要があった。ヴィンセント・チンがアジア系だったために殺され、公民権を奪われたとして訴えるのだ。だが、実際には、なかなかにハードルの高い提訴だ。

ようやく、実現した連邦裁判所での裁判。1審では、エベンスは有罪とされ、25年の刑が申し渡された。が、控訴の末、判決は逆転され、1986年に無罪が確定した、アジア系の中で、連帯の輝かしい歴史が刻まれたのだ。

繰り返されるヘイト


ヴィンセント・チン殺害事件から35年。ここ数年かの「黒人の命も大切(Black Lives Matter)」運動の盛り上がりが示すように、警官による黒人殺しがアメリカ社会を揺るがせている。レイシズムとして抗議の声はあがっても黒人を殺した警官に有罪判決がくだされることはきわめてまれだ。法執行機関と司法制度にしみついた制度的レイシズムは、社会をむしばみ続けている。さらには、富みと繁栄から見放された人たちの鬱憤と不安を国内外の「他者」に向けさせようとあおるトランプの政権下で、ヘイト・クライムが増え、狂暴化し、社会はすさんでいる。

偏見やレイシズムは、多くのひとが抱えるやっかいな病だ。ごりごりの人種差別者ばかりなら、いっそ、話は簡単だ。だが、ヴィンセント・チンを殺害したエベンスや、黒人を殺害する警官たちの多くは、そこらにいる私やあなたと同じくらい、あるいは、ちょっとだけ多くの偏見の持ち主であるに過ぎない。問題は、そのちょっとの偏見の持ち主である警官が、仕事がら、人を殺せる武器を与えられ、公職者として圧倒的に優位な権威を手にした時、その偏見に大きな暴力をふるう素地が与えられてしまうことだ。そしてさらには、ささいな行きがかりで犯されてしまう殺人や暴力行為が、私やあなたと同じくらいの、あるいは、ほんのちょっとだけ多くの偏見の持ち主である判事や陪審員の手で無罪を勝ち得てしまうことだ。こうして、似たような事件が次から次へと繰り返されていく。

世に偏見をもたない人なんて、まずいない。誰もが、なんらかの偏見の被害者であり加害者であり、加担者なのだ。だからこそ、自分がもつ偏見が行為となって悪さをしないよう、可能な限りの努力をすると共に、偏見を押さえ込む社会的な制度・装置を仕掛け、それが生きるよう目を見張らせる必要がある。偏見を助長し利用する勢力を見逃してはダメなのだ。そして、起きてしまった出来事を見据え、語り続けることも重要だ。

「息子を殺される母が2度と出ないように」


ヴィンセント・チン殺害をどう見るか。私の心に刻みつけてくれたのは、ドキュメンタリー・フィルム『誰がヴィンセント・チンを殺したか?(”Who Killed Vincent Chin?”)』を制作・監督した2人のアジア系女性クリスティーン・チョイとルネ・ダジマ、そしてマイケル・ムーアだ。

『誰がヴィンセント・チンを殺したか?』

1989年にアカデミー賞候補になった『誰がヴィンセント・チンを殺したか?』は、殺害者エベンスにも公平な目配りをした作品だが、圧倒的な主役は、ヴィンセント・チンの母親、リリーだ。中国で生まれたリリーは、中国系アメリカ人の花嫁としてアメリカにやってきた。子宝に恵まれず、中国の孤児院からヴィンセントを引き取って育て、愛し、ヴィンセントの結婚後も一緒に暮らそうと楽しみにしていた。リリーの英語は、渡米後30年以上たっても、とてもつたない。だが、息子を殺された無念をなんとか晴らそうとテレビの取材も受け、たどたどしくことばをつなぎながら、必死の形相で訴える。「もう何をしたって、ヴィンセントは戻ってこない。でも、私は、他のお母さんが、こんな目にあうのはいや。そんなことが、起きないようにしたい」、それがリリーの悲願だった。

映画のラストシーンは、連邦裁判所の控訴審で敗訴が決まったときの映像だ。観衆の前でスピーチをしようとするリリー。だが、悔しさ、悲しさ、怒りで、どうにもことばでない。固く固く握りしめられた握りこぶしをカメラはとらえる。ようやく、しぼりだしたような声でリリーは、いう。「私はただ、正義がほしいのです」、と。

マイケル・ムーアのまなざし




このブログを書くため、リサーチしていてみつけたのが、1987年にデトロイト・フリー・プレス紙に掲載された「ヴィンセント・チンを殺した男(”The Man Who Killed Vincent Chin”)」というタイトルの記事。マイケル・ムーア著とある。そう、あのマイケル・ムーア、まだ無名時代の仕事だ。

ジャーナリストの取材を一切拒否していたエベンスが、控訴審の判決を待ちながら、はじめて受けた取材記事だと、前文にある。読み進めるうち、少し不安になってきた。登場するのは、エベンスばかり。被害者の代弁者ともいえるリリーの取材はなく、加害者であるエベンスの一方的な自己弁護が延々と続く。が、やはり、マイケル・ムーア。泣き言めいたエベンスの言い分をすべて聞いてやった後、ムーアは、さらりと断罪する。「かくして、『生け贄にされた白人』シンドロームが、ロナルド・エベンスのリアリティとなった」と。

ムーアの記事の中で、エベンスは、「不幸な事件ではあったが、大騒ぎするアジア系のせいで私はレイシストの悪者にでっちあげられた」と憤慨する。が、人目を避け、もう昔のふつうの暮らしには戻れないその姿は、孤独でわびしげでもある。その哀れな姿と対照的に、ムーアは翌日、首都ワシントン郊外で予定されている威勢の良い出来事を、予告する。「その頃、連邦議員10人が報道陣が集まる撮影イベントの準備をしていた。東芝の新品の大型ラジカセを居並ぶカメラの前で壊してアメリカは『日本の植民地』から脱しようと宣言するのだ。議員たちはきっと、ロナルド・エベンスが恥じ入るほど喜びに満ち溢れて、バットをふりまわすに違いない」。 

政治家が人心をあやつるためにくりだすレイシズムや外国嫌悪の暴力の怖さを、マイケル・ムーアは、忘れない。日本でも、向けられる相手こそ違え、ちまたにはびこり、あふれているのは、こうした政権御用達のヘイトや偏見、憎悪なのだ。

 ©2017 Hideko Otake

2017年6月26日月曜日

星条旗新聞が ヒロジさんをインタビュー

June 25, 2017

6月22日付けのStars & Stripes 紙に山城博治さんのインタビュー記事(Anti-USbase protest leader has become symbol of resistance on Okinawa)が大きく出た。ちょっとびっくり。Stars & Stripes 紙は、米軍の新聞だからだ。軍メンバーに関する事柄にフォーカスして報道する新聞として国防総省内で運営されている。ただし、編集の独立性は言論の自由を保障する米憲法修正第一条によって守られているという。編集部も単なる上意下達の機関紙ではなく、読者の興味に応える報道を謳っている。

Stars and Stripes, "Anti-US base protest leader has become symbol of resistance on Okinawa."
June 22, 2017
ヒロジさんの記事も、まさにその独立性躍如の一例。もちろん、完璧な記事ではない。特に米軍の所行に関してはつっこみが足りない点が多々あるし、騒音はじめいまも続く基地被害にもふれていない。異論はいろいろあるだろう。それでも、辺野古にノーをつきつける沖縄人・ヒロジさんに正面から向き合い、そのことばに耳を傾ける真摯な姿勢は、評価できると私は思う。安倍政権下ですくみまくりにみえるNHK(がんばってる少数の人たちの涙ぐましい努力をのぞき)や多くの日本の主流メディアがかき消している声の一部を、ここで見つけた気がした。ざっと訳してみました。(翻訳・文責=大竹秀子)
 


米軍基地反対抵抗運動のリーダー 沖縄の抵抗のシンボルに
By Matthew M. Burke & Chiyomi Sumida

掛け声をあげ、叫ぶ反対運動の人たち。交通を遮断し、手にするサインには、海兵隊員は「テロリスト」で「殺人者」と書かれている。— キャンプ・シュワブや沖縄のその他の基地に駐留する軍人が毎日のように出くわす現実だ。

反対グループはおおむね少人数で、2030人から数百人規模だ。だが、米軍兵士による犯罪事件が起きると数千人に膨れ上がることもある。抗議の声をあげている人たちは明らかに非暴力で市民の支持を得ている。だが、参加者の中には興奮のあまり、アメリカ人の子供たちに罵声を浴びせたり、車をたたいたり、通行人を押したり衝いたりする人たちもいる。彼らといつも相似形の対をなしているのが日本の警察で、警察はしょっちゅうドラマチックな逮捕をおこなっている。

運動のリーダーのひとり、山城博治(64歳)は、この抵抗運動のシンボルのひとりだ。温かい人柄、物柔らかな口調、心和ませる笑顔の持ち主だ。抗議行動に関して逮捕され、5か月間の勾留の末、3月に日本の拘置所から釈放された。

釈放以来、山城は日本各地を回り、抗議運動について講演している。今月には、運動について、そして日本政府が体制批判者
いかに弾圧しているかについて国連の場で語った。

「よく誤解されるのですが、私たちの活動は、反米ではありません。アメリカ人は、いつでも沖縄の人たちの暮らしの一部になっています」、山城は、524日、那覇の担当弁護士の事務所で、スターズ&ストライプス紙にそう語った。

山城の話では、彼が子供のころ、父親は米軍基地で働いており、アメリカ人たちをよく自宅に招いた。客が、たたみにぎこちなくすわりビールを飲んでいるのをながめるのは、楽しかったという。中には、一家の親友になったものもいた。

 「そのうちの多くがベトナムにいきました」、山城はしみじみと語った。「誰かの訃報が届くたびに、私たちは悲しみにくれました。父はいまなお、額縁にいれた彼らの写真を居間にかざっています」。

山城は1952年、具志川市(現うるま市)で、農家の次男として生まれた。
         

「戦争の悲惨をたくさん聞いて育ちました。戦後の混沌で、人々が生きていくのに必死な時代でした。我が家は米軍支給のパラシュート素材で作った掘っ立て小屋だったんですよ」。

こうした戦争の悲惨の物語が、後に抵抗運動の指導者を生むことになった。山城の少年時代から十代を通してベトナム戦争が激化し、沖縄は米軍のハブになった。


「沖縄では米兵による交通事故、殺人、レイプ、そのほか、さまざまな犯罪が相次ぎました」と、山城。

1968年、B-52が近所で墜落した。もし、核弾頭がつまれていたらと思い、トラウマにとりつかれたと言う。

1970年には、通っていた高校の女生徒が、米兵に襲われ、レイプされそうになった。なんとか逃れたが、数か所を刺され傷つけられた。

「もう、怒り狂ってね。マイクを手にして高校生の抗議グループを作って、犯人が所属していた米陸軍通信部隊までデモをし、フェンスの外で集会を開きました。」

活動は1971年も続いた。沖縄返還が望んだような形で行われなかったからだ。自校をバリケード封鎖し、退学を余儀なくされた。
大学卒業後、沖縄県庁の職員となり、税務などを担当した。また、全日本自治団体労働組合の沖縄支部の副委員長も務めた。2000年には、沖縄平和運動センターに参加し、あっというまにかけがえのないリーダーになった。山城と抗議運動参加者たちは、いくつもの理由から普天間の海兵隊飛行場のキャンプ・シュワブへの移転に反対している。最新鋭の軍用飛行場を備えて増強される基地は、地域に戦争が勃発した際に敵の標的にされるという思いもある。

「沖縄で軍の存在を強化すれば、中国との軍拡競争をあおるだけです。いますでにある軍事力をもとに、アメリカと中国は現状維持を話し合えるはずです。アメリカと中国には、それができると確信しています」と山城は、言う。

理想をいえば、抗議運動をおこなっている人たちは、沖縄を米軍も日本の自衛隊もいない、軍隊のいない島にしたいと願っている。だが、その実現はありそうにないと、山城は見る。だから、抗議運動は、拡張とみられるあらゆることに反対して展開されている。 

「抑止力の必要に異を唱えているわけではありません。でも、抑止力を、武力の行使にエスカレートさせてはなりません。戦争がだんだんと近づいているという強い予感がしています。この島がまたしても、戦場になると考えると、身の毛もよだつ思いがします」。
反対運動の人たちは、環境問題にも懸念していて、大浦湾に建設される新しい滑走路を、環境を破壊する大災厄とみている。山城と反対運動の人たちは、思わぬ場所から支援を得た。セントルイスを拠点とする「平和を求める元軍人の会(VFP)」だ。

VFPは、元軍人と現役の米軍人がメンバーだ。VFP全米理事会メンバーで1959年から1962年まで第101空挺部隊に所属した元軍人のタラク・カウフは、「VFPのミッションは、戦争の廃絶ならびに、平和の文化の構築だ」と語る。VFPはこれまで反対運動の人たちを支援して、沖縄に数回、メンバーたちによる派遣団を送った。カウフもこれに参加した。

「沖縄で広く支持を得ている市民運動、独立やほんとうの民主主義と求める運動、米軍による沖縄の占領を止める運動は、大勢のアメリカの元軍人と現役の軍人、特にVFPのメンバーの間で共感を呼んでいます。私たちは、米国の戦争と軍事主義による不毛と恐怖を目にしてきたからです。沖縄では、住民の7割から8割が、米軍基地の存在を望んでいません。そして、知事も含めて住民の9割近くが、辺野古と大浦湾の環境破壊に反対しています。そんな状況で、我々が守っていると称する民主主義とは、いったい何なのか」と、カウフは言う。カウフは、山城に同志を見いだしたのだ。

山城の話によると東京の中央政府は、沖縄とその住民に多大な圧力をかけている。力の続く限り、ふんばり、闘い続けると山城は言う。

抗議運動はすっかり定着している、だが、それは、アメリカ人と沖縄の人々が敵対関係にならざるをえないということではない。

「軍の人たちと沖縄の住民が密なコミュニケーションをもつ限り、互いに理解しあえるとかたく信じています。結局のとこころ、私たちは皆、平和を、そして戦争のない世界を求めているのですから」。 

burke.matt@stripes.com

sumida.chiyomi@stripes.com









2017年6月24日土曜日

かくもずさんな沖縄の武器管理 ジョン・ミッチェルがスクープ

June 23, 2017

またしても、ジョン・ミッチェルさんのスクープです。6 21日付けJapan Times に掲載された記事("U.S. military under fire for gun safety breaches on Okinawa")は、米情報公開法で入手した米海軍犯罪調査局(the Naval Criminal Investigative Service)の文書をもとに2014年に沖縄で海兵隊員がM16 ライフルと銃弾を手に自宅にたてこもった事件の顛末を詳細に報じると共に、いまも続く沖縄での米海兵隊の武器管理のずさんな実態を明らかにしています。

Japan Times "U.S. military under fire for gun safety breaches on Okinawa"
June 21, 2017 by Jon Mitchell

まずは
2014年の事件。1030日朝、海兵隊員1名が金武のキャンプ・ハンセンに現れ、射撃場のテーブルに置かれていたM16の銃弾16発を盗んだ。この人物は次にキャンプ・フォスターに赴き、M16ライフル銃を借り出した。軍紀では貸出を認めていなかったが、隊員がそこそこ高いランクだったため、お目こぼしで借り出すことができた。隊員はキャンプ・レスターに近い住宅地域にある自宅に戻り、浴室のひとつにたてこもった。午前840分、同僚の一人に電話し、武装しており自殺するつもりだと告げた。同僚の通報でMPがかけつけ、説得の末、午後1254分、武装解除し逮捕した。この間、男が武装しているにもかかわらず、周辺住民への説明は一切なかった。

2017年6月14日水曜日

乞食行進の信念——伊江島の農民抵抗運動 by ジョン・ミッチェル

June 13, 2017

ずっとずっと訳したかったジョン・ミッチェル(Jon Mitchell)さんの記事「乞食行進の信念——伊江島の農民抵抗運動 (Beggars' Belief: The Farmers' Resistance Movement on Iejima Island, Okinawa)」。伊江島の農民と阿波根昌鴻たちの、武器を政治権力を持つ米国・米軍 vs. 素手で土地を奪われた農民、多勢に無勢の闘いです。それでも、人の道を諭す凜とした生き方で優位にたち、おそれも妥協もしない。工夫と人への信頼に基づいた運動は圧倒的です。阿波根さんの著書、岩波新書の『米軍と農民』『命こそ宝』、もっともっと多くの人に読んでほしい。必読書です。[翻訳・文責=大竹秀子]



乞食行進の信念——伊江島の農民抵抗運動 
by Jon Mitchell

伊江島に米軍がはじめて侵攻したのは、1945年4月16日のことだった。沖縄本島から3マイル[5キロ弱]の位置にあるこの小さな島で起きた凄惨な戦闘については、米軍の事細かな記録が残っている。1000 人の部隊が80艘の上陸用舟艇に乗り伊江島の東岸を急襲し、塹壕の中にいた日本の守備隊から激しい抵抗を受けた。続いておきた5日間の血みどろの戦いで日本帝国軍兵士2000人と、住民1500人の命が絶たれた。沖縄の多くの場所でそうだったように、住民の死のすべてがアメリカ兵の手によるものではなかった。

2017年6月13日火曜日

オスカー・ロペス・リベラ 闘い続けて

「家族の次に恋しいのは海だ。この刑務所ではよく海が懐かしくなる。肺いっぱいに潮の香りを満たしたり、触ったり唇をぬらしたりしたあの海を。でも途端に気づくんだ、あの純粋な喜びに身をおくにはあと何年も先だろう、と」。



オスカー・ロペス・リベラが、愛する孫娘カリーナに向けて書いた手紙の一節だ。現在、74歳。70年間の禁固刑の判決を受けて、人生の半分に近い36年間を獄中で過ごしたオスカー。釈放の望みをもつことができなかった3年前に、書かれたこの手紙は、「国中で一番脱獄が難しく、難攻不落といわれ」囚人を「隔離し無能力にするためにつくられた」コロラド州フローレンスの刑務所での厳しい暮らしについても触れている。

「米州のマンデラ」と呼ばれることも多い、オスカー。プエルトリコに生まれ、14歳で両親と共にアメリカに移住するまで、自然の中で育った。鉄とコンクリートで自然から遮断された刑務所は、とりわけ、つらい体験だった。「イリノイ州のマリオン刑務所では、週に1度庭に出て、そこから木々や鳥たちを見ることができた。電車の音を聞き、セミの歌も聴いた。地を駆け回り、匂いをかいだ。草もつかめるし、蝶たちは周りにいた。でもフローレンスではそれら全てが終わったんだ」。

2017年6月10日土曜日

LGBTQ プライド・リボン

June 9, 2017


6月の風。フェンスいっぱいにいろとりどりに結ばれたリボン。誇らしげにたなびいている。たまたま通りがかった、ご近所、セントマークス教会。力をわけてもらった気がして、うれしい。



2017年5月30日火曜日

進撃! メモリアルデーにNYで反辺野古基地建設アピール。


「NO WAR (戦争をなくす)なら、まずは基地をなくさなきゃ((NO BASE)」。隣で紀子さんがじれている。空は快晴、日曜日。メモリアルデーの連休のNY。ここは、マンハッタンの南端にあるバッテリーパーク。自由の女神があるリバティ島に向かうフェリー乗り場がすぐそばのこのあたりには、第2次大戦で海で亡くなった水兵、海兵隊、沿岸警備隊、4601人を追悼する碑が海に向かって立っている。きちんと終了しなかったため、モニュメントからみそっかすになっていた朝鮮戦争の戦没者の碑も、1990年代にはいってようやく全米にさきがけてここに建立された。