2017年9月26日火曜日

アミラ・ハス:金平茂紀との対話 ジャーナリストはなぜ、なにを、どのように伝えるのか? 

September 20, 2017

ジャーナリストの役割は、権力をモニターすることと発言し実践している、アミラ・ハスさん。その断固たる姿勢の活力となっているのは怒りだという。ハアレツ紙のスター記者であり、同紙の存続を支えているアミラさんだが、東京での講演の最後にあたる920日でのジャーナリズムをめぐる講演と対談で、招聘者である土井敏邦さんの紹介に、もちまえのチャーミングなユーモアでこたえて、話を始めた。







*権力をいらだたせる

アミラ:土井さんは、パレスチナとのつきあいが長い。話を大きくするパレスチナ人のくせがきっとうつってるに違いない。私のことをどんな風に紹介してくださったかわかりませんが、きっと話が大きくなってるんだろうなと思ってます。

26年前、ハアレツ紙にはじめは校閲記者として入社した。やがて、時折ガザに行って占領について書くようになった。最初に書いたのは、イスラエルの民政局について。そもそも民政局の役目はパレスチナ住民の世話をすることのはずなのだが、実際にはすっかりイスラエル軍の植民地政策の手先になっていた。が、当時のイスラエルのメディアでは、民政局が住民のためにこんな良いことをしたなど、民政局をもちあげる記事しか載せていなかった。そんな中で私は、実際は軍の一部でありイスラエル至上主義の施政をおこなっている民政局に対する住民の声をそのまま伝える記事を書いた。


私がまだ無名の記者だったということもあり、イスラエル当局はいらだちの反応を示した。当時、私の上司だった副編集長にそのことを話すと、「良い仕事をしたんだな」と言われた。この上司は、20年前にヘブロンの占領軍の司令官だった人で占領側の視点も知っている。今日のハアレツで占領批判の先頭にたっている人物だ。

ジャーナリストには当局を止めたり変えたりすることは出来ないかもしれないが、最低限、当局を批判していらだたせることはできる。

権力はどこにでもあるから、それをモニターするのはごく自然なことだ。現地に出向いて人々に話しかけ、彼らが口にすることに耳を傾ける。権力が彼らをどのように辱め、不当に扱い、差別しているか。これはパレスチナ人相手に限らない。もつものともたざるもの、支配するものとされるもの、階級間の苦闘はどこにでもある。



*オスロ合意以後

アミラ:もちろん、記事を書ける場が必要だ。ハアレツのようにオープンで、イスラエルの多くの人たちが知りたいと思わない内容を書く自由を与えてくれる新聞で仕事できることをラッキーだと思っている。
だが、ハアレツ紙もいつもこうだったわけではない。編集者の中には一般的な意見にそわない内容の記事を出すことに理解がない人もいた。

オスロ合意締結のころ、語られる「和平」と現場での占領政策の実情との違いに違和感を覚えた。人々は、紛争が終わりまもなく平和が実現すると熱心に信じたがっていたので、これに棹さすような私の記事は、楽しいパーティを台無しにするものと受け取られ、人々の理解を得られなかった。

オスロ合意後のイスラエルでは、イスラエルは平和に向けた準備が整っているのに、国家となったパレスチナが弱い小国イスラエルに攻撃をかけているという世論が大勢を占めるようになった。だが、第2次インティファーダで私が目にしたのは、デモに参加するパレスチナの人々に向けて最初に発砲するのはイスラエル兵だった。

私はそのことを書いたが、私の記事は紙面の奥に埋没され、一面の大見出しはパレスチナが攻撃を開始したとし、これが現実として受け取られた。私の情報は、事実の報道というより意見記事のような扱いだった。

2次インティファーダが始まってから2年ほどたち流血沙汰がひどくなると、イスラエルの軍や諜報部の幹部の中でイスラエル軍がインティファーダの当初、不必要な暴力を行使し、それがパレスチナの対応を悪化させたと認める発言が出てきた。

*怒りが活力

アミラ:不正義を日々、目にすること、ユダヤ人として特権をもっていきることに怒りを覚える。抑圧されてきた過去、被抑圧者の側にいるはずのユダヤ人である自分が突然、南アの白人のような立場に立たされていることは、被抑圧者であるユダヤ人という自己像を裏切るものであり、それに対する侮辱でもある。特権といってもどこにでも行かれるというあたり前の移動の自由・移動の権利にすぎないわけだが、私がガザに住むパレスチナ人であれば、ここにこうしてやって来て話をすることは不可能だろう。
特権への怒りは私たcけではなく、イスラエル人の多くのアクティビストが同じ思いを抱いており、この特権を駆使して、特権者の体制と闘かっている。

*日本のメディア状況

金平:アミラさんが権力をいらだたせる記事を書いたとき、上司が良い仕事をしたってことだと言ったときいてうらやましい。アミラさんが孤立していないということだから。日本では組織の圧力にさらされてジャーナリストが個人の視点をふまえて記事を書くことが非常に難しい状況にある。政権を監視することはまったくなくなってしまい、その能力を失ってしまっているのが現実。悲しいことだ。

日本の官房長官の定例記者会見で東京新聞の女性記者が執拗にくいさがって質問をした。記者仲間たちは慣例を破った、しつこすぎる、時間をひとり占めしたといってその記者を排除しようとした。さらに、ささいなケアレスミスを指摘し、官邸の報道室が再発防止の警告文を新聞社に送り付けた。

アミラさんに対する具体的な取材妨害や排除の動きはあるのか?



*敵はいるが支援もたくさん

アミラ:暴力的に排除しようとされたことはない。敵対的な態度を取られたり、ばかにされ、見下されたり、私について誤ったことが書かれることはあるが、たくさんの支援も受けている。もともと私は左派の家族の出てメインストリームに身を置いたことは一度もありませんから、メインストリームにいないことを大きな損失と感じたことはない。それに、「ひとに好かれること」はジャーナリズムであるために必要不可欠な資格とは、されてませんから。

ジャーナリストは自己中心的で嫉妬深かったりするのでメインストリーム・メディアのジャーナリストから支援されることは楽ではありません。イスラエルの主流メディアは、占領に関しては大変、引いた態度をとっています。でも、いまではソーシャルメディアがオルタナティブな役割を果たしていて、主流メディアの健全な競争相手になっている。また、占領に反対するNGOもホームページなどで情報を出している。

たとえば、ウェブマガジンの「972」は若いジャーナリストたちの声を英語で発信しているが、私をモデルにし、私の仕事をフォローしてくれている。大変、うれしいことだ。

*抵抗の形 投石と武装闘争

金平:あなたは、占領地の子供たちの投石は正当化できるが、組織的な武装闘争は支持しないとおっしゃっている。そのふたつの区切りはどの辺にあるのですか?

アミラ:占領と抑圧に対して抵抗する権利、「パレスチナ人が投石する権利と義務」について書いた私の記事について言及なさっていると思いますが、その中で私は投石に関する分析と批判もしている。子供たちの投石は、必ずしも占領に対する闘いとして行われるわけではありません。学校がつまらないとか、逮捕されたいから、という場合もあります。もちろん、占領に対する怒りは、いつもあります。特に、難民キャンプはパレスチナ社会の中でも最も抑圧が厳しく不当に扱われ、ないがしろにされている。でも、投石する子供たちは逮捕ならいい方で殺されることもある。パレスチナ社会は学校で、逮捕された時の権利、黙秘の権利や弁護士の接見、尋問に弁護士をたちあわせる権利などをきちんと子供たちに教育すべきだ。1516歳の子供たちが自由を犠牲にするのなら、少なくともおとなたちはきちんと指導すべきだと思う。

武装闘争についてはパレスチナ社会の大半からは浮き上がっている。第2次インティファーダが最初は非武装の大衆蜂起だったが、イスラエルがデモ隊に対して過剰な暴力をふるったためもあり、少数のパレスチナ人が抵抗をハイジャックして武装闘争に劣化させ、武力闘争を自己目的化し、あがめてしまうようになった。武器を使うのは少数の男たちのグループだ。

岡本公三が英雄とされ、武装闘争で名を残す人もいるが、一方でパレスチナの村で8年にも10年にもわたり非武装で抵抗を続けている名もない人たちがいて、イスラエル軍への妨害という点で彼らの方が成功をおさめている。

金平:レバノンなど中東に行き、私が日本人だと知ると、多くの人が岡本公三のことを向こうから話しかけてきて、[日本人が] こういうことをしてくれたと言われ、考え込んでしまう。彼がやったこと[1972年のテルアビブ空港での乱射]の重みがいまも共有されてしまっていることに衝撃を覚える。

アミラ:40年がたちイスラエル軍の優越と勝利がこまで明らかになっているのに武装闘争を歓迎するのは、弱さの表れだと思う。復讐したいという、それを必要とする思いはよくわかります。でも、それが解放への闘いにとってよいアドバイスだとは思わない。武装闘争がこれまでに成功を収めていたなら、私の考えも違っていたかもしれないが。

パレスチナの大多数の人たちは自爆やナイフによる襲撃とは無関係。ひとりひとりが不屈の不服従の取り組みをしています。



*イスラエルと言論の自由

金平:イスラエルに言論の自由はあると思うか?

アミラ:表現の自由はあり、ハーレツ紙は英語で世界に向けて発信している。報道の自由はあり、これからもそうあってほしいが、人々には読む義務、知ろうとする義務はない。イスラエルの検閲は社会内部の問題であり、読者の側が読みたがらず、知りたがらないでいることだ。

金平:反体制的な言論の自由があることが、かえって体制の強化に使われていないか?反体制的報道をすることがかえってイスラエルの体制の強化に使われると考えることはないか?失礼な質問だと気を悪くされたら、ごめんなさい。

アミラ:いえいえ、よく聞かれることで直面しなければいけない問いだと思います。これまでのご発言から、この質問であなたが私に「口をつぐんで野菜作りでも始めたら」とすすめているわけではなく、聞いておいてよい問いとしてたずねていらっしゃるのだろう、ことはわかっています。
確かに、アラブ諸国では政権批判を書いたり語ったりすることが禁じられているが、イスラエルではその自由がある。これは事実。でも、人々は土地を奪われたり家を壊されたり、家を建てる許可を得られなかったり、土地を分断されたり、さまざまな差別を受けている。尊重すべきあらゆる自由が疎外されているときに、情報や表現の自由だけに重要性をおきすぎるのは、妥当なことではない。

金平さんと私は同じ思いをもつジャーナリスト仲間だと感じる。私たちは権力を監視することで終わるのではなく、変化が起こることを目にしたいと望んでいる。

悲しい結論だが、人々は知る権利をもっている。だが、不公平、不正がまかりとおる現実を変えるには、それを知るだけでは足りないということだ。

*ジャーナリズムの中立性とは?両論併記が中立なのか?

金平:日本の新聞はある時点から、何が中立かを考えることを放棄してしまった。両極端の中点と思うのは、大間違い。両論を併記すればニュートラルとは思わない。自分の立ち位置、取材の状況をすべてあかしながら、どういうことを事実として確定するかを考えなくてはいけない。

アミラ:同感です。ロバート・ふぃすくは民族間、あるいは国家間の紛争や歴史をフットボールの試合のように中継・報道することはできないと言った。両論併記は、私もやりますが、自分の立ち位置を隠しません。心配はいりません。イスラエルの立場は、過剰なまでに報じられていますから。私は空白状態の中で書いているわけではありません。

私はパレスチナの人たちへの手放しのファンでもありません。私は当初から占領に対し政治的・イデオロギー的に反対していますが、パレスチナ自治政府が占領の下請けになっていることハマスが武装闘争を自己目的化、パレスチナの人々を犠牲にしてまでも自らの力を維持しようとしていることに対して大変、批判的であり、そのことも書いている。



*加害を気づかせること

金平:1980年代頃から歴史の分野で自虐ということばが席捲するようになった。いやだな、と思う。加害と被害の両方を経てきた人間として同等にきちんと向き合っていくべきだ。沖縄に知らんふりをし、無視しているのは、不正義の典型だ。誤った自己肯定、根拠のない優越意識が日本の若い世代の中で共有されているとしたら、おとなの世代、そしてジャーナリズムに責任がある。

アミラ:25年間、書いてきた結論は、イスラエルの人たちが[加害性に]鈍感なのは、占領から利益を得ているからだ。

人類の歴史をみても特権者、支配階級が他者にしいている苦難を認識するのは、虐げられている側が団結して闘う時だけだ。特に近代以降は、ジャーナリズムとアクティビズムの連携が重要になっており、ジャーナリズムはアクティビズムへのとても重要な助けとなっている。

アクティビズムはジャーナリズムがなくても活動することができる。たとえば、イスラエルで占領より前からある男性中心社会の問題。25年ほど前、イスラエル社会では女性たちは不当に扱われ、いまでは考えられないような表現が横行し、レイプ裁判でも犯人に同情的な判決が出されていたが、メディアは声をあげなかった。

1989年にキブツで女子高校生が集団レイプされた事件で判決が出たとき、当時、判事は神聖な存在とみられ判決を批判するなどとんでもないとされていた時代にフェミニストのグループが判事の家の前で抗議のデモを行い、女性ジャーナリストが記事にすると、批判の声が燎原の火のように広がり社会の目が開かれた。支配にひびがはいった。アクティビズムに触発されたジャーナリズムとアクティビズムがひとつになって社会を変えたのだ。

   *  *  *


アミラさん、対談者のみなさま、つアミラさんを日本に招聘してくださった土井敏邦さん、そしてアミラさんのことばをすばらしい日本語にして会場とつなげてくださった通訳の渡辺真帆さん、ありがとうございました。


0 件のコメント:

コメントを投稿