June 13, 2017
ずっとずっと訳したかったジョン・ミッチェル(Jon Mitchell)さんの記事「乞食行進の信念——伊江島の農民抵抗運動 (Beggars' Belief: The Farmers' Resistance Movement on Iejima Island, Okinawa)」。伊江島の農民と阿波根昌鴻たちの、武器を政治権力を持つ米国・米軍 vs. 素手で土地を奪われた農民、多勢に無勢の闘いです。それでも、人の道を諭す凜とした生き方で優位にたち、おそれも妥協もしない。工夫と人への信頼に基づいた運動は圧倒的です。阿波根さんの著書、岩波新書の『米軍と農民』『命こそ宝』、もっともっと多くの人に読んでほしい。必読書です。[翻訳・文責=大竹秀子]
乞食行進の信念——伊江島の農民抵抗運動
by Jon Mitchell
伊江島に米軍がはじめて侵攻したのは、1945年4月16日のことだった。沖縄本島から3マイル[5キロ弱]の位置にあるこの小さな島で起きた凄惨な戦闘については、米軍の事細かな記録が残っている。1000 人の部隊が80艘の上陸用舟艇に乗り伊江島の東岸を急襲し、塹壕の中にいた日本の守備隊から激しい抵抗を受けた。続いておきた5日間の血みどろの戦いで日本帝国軍兵士2000人と、住民1500人の命が絶たれた。沖縄の多くの場所でそうだったように、住民の死のすべてがアメリカ兵の手によるものではなかった。
与那覇地区のアハシャガマや伊江島のその他の洞窟で日本帝国軍の兵士たちは住民家族を集め、一家にひとつずつ手りゅう弾を渡した。生きて捕虜になれば、拷問とレイプにあうと念を押され、降伏を試みたものは射殺された。日本軍は、降伏せずに住民全員が華々しく玉砕しなければならないと決めており、うまく米軍に投降できた住民でさえ安全ではいられなかった。生存者の話によると、伊江島の女性5人が投降後、おいていった荷物を取りに洞窟に戻ったところ、日本軍部隊に殺害された。アメリカ軍の手で慶良間諸島の収容所に移送されていた6人の若者が、他の住民に投降を勧めると、日本軍将校の手で殺された。アメリカ人の死者の数は日本人に比べると比較的少なかったが、それでも戦闘が終わるまでには、300人のアメリカ人が命を失った。第2次大戦に召集された男たちについて人間味あふれる記事を書き、名をなした通信員アーニー・パイルもそのひとりだった。
アメリカの2度目の伊江島侵攻は、それから10年後に起きた。アメリカの歴史家たちにはあまり注目されていないが、伊江島の住民たちはいまなお、その後、起きた出来事で苦しんでいる。沖縄がアメリカ軍の植民地と化していた1955年3月11日、アメリカの上陸用舟艇が再び、伊江島の東海岸に現れた。彼らの任務は、空対地の射爆場を建設するために島の3分の2を接収することだった。この時は、軍はわずか300人の兵士でやってきた。彼らの新たな敵は、武器をもたない島のピーナツとたばこ農家にすぎなかったからだ。
アメリカはこの2度目の攻撃に際しても、1度目の攻撃計画と同じように万全の準備をした。すでに1953年7月に、米軍は土地の調査を行うふりをして島にチームを派遣した。伊江島の住民数人を下働きとして雇い、仕事が終わると、アメリカ人たちは彼らに英語の文書に捺印するよう求めた。アメリカ人たちはこれを日当支払いの領収証だと説明したが、島民たちは後に、自分たちが立ち退き同意書にはんこを押してしまったと知ることになった。この欺瞞がばれると、島民の中には、新しい主人を敵にまわすことを恐れ、立ち退きに同意するものも少数、出た。これを見てアメリカは、このようにすれば、もっと広大な土地を楽々と接収できると思い込んだ。その後、繰り広げられた50年の闘いは、彼らが農民をいかにみくびっていたかの証となった。
まずはじめ、1955年3月の侵攻第1日目にアメリカ軍は島の南部一帯を迅速に席捲していった。島民たちを家から引きずりだし、住居を焼き払い、くすぶっている焼け跡をブルドーザーでならした。抗議をする者は逮捕され、首都、那覇に送られ訴追された。ある家では6歳の娘がひどい熱をだしてふせっていたため、家人が、自分たちの家をいまは見逃してほしいと頼んだ。すると、兵士たちはおびえている子供を家から連れ出し島の診療所のドアの外に置き去りにした。アメリカ軍の行く手をはばんだ山羊の群れは、ライフル銃で射殺された。村のすべてを破壊しつくすと、軍の将校たちはみえすいた手で侵攻の合法化をはかった。銃をつきつけて農民たちの手にひとにぎりの軍票(占領下の疑似紙幣)を押し込んで無理やり受け取らせ、顔をカメラに向けさせ、島民が立ち退きを受諾した証拠として本部に送る写真を撮影した。
「その日、写真を撮ったのは、アメリカ人だけではありませんでした」と謝花悦子が説明してくれた。「農民たちは、自分たちの身に起きていることを世界にわかってもらうためには、自分たちにも証拠が必要だと悟ったのです」。謝花は「命(ぬち)どう宝の家」の世話人で、60代後半の白髪の女性だ。まん丸な顔に笑みが浮かぶとたちまち、20歳、若くみえる。有名な琉歌からその名を取ったこの伊江島博物館「命(ぬち)どう宝の家」は、米軍から自分たちの土地を取り戻そうとする農民たちのいまも続く闘いを記録している。博物館は1955年に米軍が上陸した海岸の近くにあり、2軒のがたが来た建物で構成されている。いまでは、ビーチは日本のリゾートになっていて、私たちが話している間、東京から休暇で来た人たちの叫び声、ジェットスキーの喧噪音が私たちの会話の声にかぶさった。
謝花は農民たちが撮った1955年3月の破壊の写真を見せてくれた。焼け焦げた土地と黒くこげたサンゴのレンガがうつった空っぽの白黒の光景だ。何枚かの写真は、さっきまで家があった場所にフォーカスを合わせようとしたかのように、ぼやけている。「阿波根昌鴻は、その日、家を破壊された農民のひとりでした。村民たちを組織して、射爆場に反対する闘いを始めました。皆から沖縄のガンジーと呼ばれています」。
謝花は壁にかかった大きなカラー写真を指し示した。日焼けしたしわだらけの顔が麦わら帽子の下で穏やかな笑みを浮かべている。シーザー・チャベス[アメリカの伝説的な労働運動家。農場労働者たちの組合結成で知られる]を少し細身にした感じ。少々重たげな厚めの上まぶたの下で知的な思いやりあふれる瞳が輝いている。米兵が2度目に上陸したとき、阿波根は52歳だった。貧しいが教養ある家に生まれた阿波根は、若いころ、キリスト教徒になり、一旗揚げようとキューバとペルーにわたった。ことは計画通りに運ばず、米州では食いつなぐだけでやっとという暮らしを体験した。貧民同然で帰国した阿波根は、懸命に働いて伊江島に農地を買った。戦争が目前だった頃、阿波根は村で禁酒運動を立ち上げたり、手作りの紙芝居で近所の人たちを楽しませたりしていた。こうした天性の話し上手と道徳心がひとつになって、後に農民運動について語り続ける下地を作り、2002年に101歳で亡くなる直前まで、訪れる学童たちへのトークを続けた。
謝花が話していると、ドアに軽いノックの音がして、コンビニの小さな袋を手にした高齢の女性がはいってきた。謝花が私との対応に忙しいのを見て取ると、女性はおじぎをして謝花の机のわきに慎重に包みを置いた。白いプラスチックの袋には、何だかわからないが、土埃のついた円筒形のものがどっさりはいっていた。私はここに来る前に港で目にした光景を思いおこした。島の名産の売り物の落花生、くすんだ色の黒糖の塊、そして雑然と置かれた明るいピンクのドラゴンフルーツ、そんなものが一緒にならんでいた。
「阿波根先生は1984年に命どう宝の家を創立しました。1955年にアメリカ人たちが上陸してから後、ここで起きたことを見せる常設展示を作りたかったのです。本館をご案内するよう、アシスタントに頼みますね」と謝花がいうと、40代くらいの女性が部屋にはいってきた。謝花が机からプラスチックの袋を持ち上げアシスタントに手渡そうとすると袋の脇が破れてしまった。1ダースほどのさび付いた銃弾が床にこぼれた。私は飛び上がったが、女性たちはまばたきひとつせずに、かがんで銃弾を集め袋に戻した。
アシスタントは受付から出て、敷地の裏側にある展示場へと私を案内した。アシスタントが滑り戸を開けると、古着と古本の匂いがまじったようなむっとする熱気があふれ出た。中にはいると博物館は過去50年間の思い出の品のごたまぜだ。米軍のパラシュートが抗議の横断幕の隣に掛かっている。昔の新聞記事の切り抜きが農民が自分たちの闘いを記録するために撮影した数十枚の写真と並んで壁に貼られている。玄関口の真正面には、薬きょう、ミサイルのフィン、手りゅう弾とロケットなど、錆びの出た金属が山積みだ。アシスタントは膝まづいて先ほどの銃弾をその山に加えた。その動きで小さな白いとかげが目をさまし、殺害具の堆積の中を逃げまどい、半分吹っ飛ばされた迫撃砲の円筒部の中に身を潜ませた。
「農民の家をブルドーザーでならしてから数日もたたないうちに、米軍は射爆場の建設を完成しました。ビーチから運んできた白い砂を盛り、そこを爆撃の目印とする巨大な標的を設置しました。爆撃は昼夜を問わず、行われました。ミュージアムに置かれた薬きょうは発射された弾丸のほんの一部にすぎません。農家の人たちはいまでも薬きょうが出てくるとうちのコレクションに加えるよう、もってきてくれます」
家を追われた村人はどうなったのかとたずねると、アシスタントはテントの列が並ぶ写真を指し示した。「米軍は[家を建てるための]建築資材を提供すると約束し、確かにその約束を守りました」。アシスタントは悲し気な微笑みをたたえて私を見た。「届けられたセメントはすでに袋の中で固まっていました。板は腐り、釘は腐食していて使い物になりませんでした」。1枚の写真は家族15人が側面が開いた小さなテントの中にぎゅう詰めにされているようすをとらえている。「村の人たちは、たちまち、脱水、日射で病気になり、皮膚病にもやられました」。
劣悪な建設資材と合わせて、米軍は農民に補償金の提供を行った。金を受け取れば、土地接収に同意したとみなされることから、人々は受け取りを拒否した。農民たちは米軍の行動は非合法だと申し立て、米軍が収容所の設置を強要した不毛な地ではなく、もともとの畑で農作を続ける権利を主張した。1955年5月にいたるまで、農民たちは米空軍の演習地にはいって自分たちの土地で工作を続けた。米軍に自分たちがそこにいることを示し警告するため、大きな旗をたてていたにもかかわらず、軍は爆撃訓練を続行した。あたりに薬きょうが落下する中で、農民たちは作物を育てた。不正に屈するものかという強い思いもあったし、家族が食べていかねばならない差し迫った必要もあったからだ。
伊江島の島民たちは6月13日まで自分の畑で農作を続けた。この日、米兵は農民80人を逮捕し、農具を没収した。軍事法廷で32人が即刻懲役3か月、執行猶予1年の判決をくだされた。釈放された人たちは伊江島に到着するやいなや、畑に直行した。米軍の対抗に情け容赦はなかった。300エイカーの畑にガソリンがまかれ、農民のじゃがいも、メロン、たばこの作物は灰と化した。
自活する手段を絶たれた阿波根と村人たちは同胞である沖縄の人々の慈悲にすがろうと決意した。自分たちの行動を説明するために阿波根が書いた書簡を、アシスタントが見せてくれた。「乞食をする以外に道がありません。もちろん、乞食は恥です。だが、軍の力で土地を取り上げ、私たちに乞食をすることを強いることこそ、とりわけ恥ずべきことなのです」。
1955 年7月21日、村人たちは沖縄本島へ向かうフェリーに乗船した。それから7か月間にわたり、「乞食の行進」と銘打って、北部の国頭から南部の糸満まで約70マイルを歩いたのだ。通りがかりの町で、村人たちは地元の住民に会い、自分たちの闘いについて語った。この行進の間、村人はどこでも温かい歓迎と共感で迎えられた。貧窮のどん底にある村でさえ、食事と一夜の宿を提供した。アシスタントが、支援してくれる人たちに農民たちが感謝のしるしとして送った記念写真を見せてくれた。男たちは誇らしげにカメラをみつめている—彼らのズボンにはツギが当たり、擦り切れている。だがシャツはノリが効いて真っ白だ。女たちはひざの上から這い出ようとする子供たちを抑えながら、笑顔をくずしまいと懸命だ。
市民たちの手厚いもてなしに比べて当局の対応は対照的だった。沖縄の政治家と知識人は伊江島の農民の支援への訴えをこぞって無視した。島民たちが対決を迫ると、米国高等弁務官のジェイムズ・ムーアは「赤」のカードを切り、無知な農民たちは共産主義の扇動者のカモにされ操られていると言い放った。空軍のスポークスマンは、問題を「ささいな論争」と呼び、「自由世界と[沖縄の]市民双方の」安全保障を確保する爆撃演習を考えれば、とるに足らないこととした。
7か月間の旅を終え、乞食の行進は1956年2月、伊江島の故郷に戻った。出発前に比べ、状況にはなんの改善もなかった。雨漏りのするテントはあいかわらずで、生活のよすがとする畑に近づくことも許可されぬままだった。爆撃とジェット機からの機上掃射は日夜行われてすり減った神経をさらに攻撃し、安息は不可能だった。
「農民たちが日本本土に苦境の訴えを送ろうとすると、手紙は米軍に押収されました」とアシスタントが説明してくれた。「自分たちがここでやっていることを世界に知られたくなかったのです」。それでも数通の手紙は検閲の警戒線を突破した。日本のメディアが農民たちの闘いのニュースを報道すると、本土の人々は支援しようと結集した。学生、主婦、会社員たちが伊江島に慰問の小包を送った。島民たち宛てに、粉ミルク、砂糖、米、魚の缶詰、ノート、教科書、筆記用具がどっさり送られた。その箱がミュージアムに展示されている。箱の多くに書かれた宛先の住所は、ただ、「伊江島の勇敢な農民の皆さんへ」とされている。
どんなに小さな包みでも、ひとつひとつに島民は、感謝の手書きのバナーと写真を送った。北海道の僻地から巨大な包みが届いたときには、村中が集まって31個の木箱が開くのを固唾をのんでみまもった。市長が箱の中の靴や衣服の分配を始めると、病人とお年寄りまでベッドから出てきて自分の着古した服を脱ぎ、雪に閉じ込められた北の島からの贈り物を試着した。村の人たちが書いたサインが今日もなお、ミュージアムに掛けられている。「釧路の炭鉱夫のみなさん、南の国に住む私たちから、温かい感謝を送ります」。
こうした小包は、とてもありがたいものだったが、村人の暮らしを支えるには足りなかった。1950年代が末に向かうにつれ、政府からも軍からも財政支援を受けられず、島民たちは希望のない状態に置かれた。昔はたばこと甘藷を収穫していた場所で、いまでは人々は爆撃場の周辺で軍の金属のスクラップをあさった。爆弾の破片や薬莢を回収して業者に売れば雀の涙ほどのお金になった。時折、まるまるそのままの不発弾に出くわすこともあった。農民たちはそれを引き抜き、配管工のレンチとスチールのパイプを使って自分たちの手で信管を抜いた。こんな風にして独学で不発弾処理技術者になったのだ。しかし、プロの専門家でもそうだが、この男たちの運がつきることが時折あった。1956年から1963年までの間に、こうしたアメリカの弾薬の回収と分解の最中に10人以上の島民が命を落としたり、負傷した。中には戦闘機から発射された機銃にあたった十代の若者2人もいたし、21歳の平安山良福は射爆場の外で草刈りをしていたときに標的からそれた爆弾に直撃された。壁の写真は、腕をもがれ、顔の一部が吹き飛ばされた農民たちが写っている。平和を装わされた島の戦闘写真だ。
私を部屋の奥の方へと案内しながらアシスタントが言った。「1960年代の前半に、農民の一人があまりにも貴重なため売るわけにはいかないスクラップに出くわしました。ある日、自分の畑に突き刺さっているのをみつけたんです。米軍がくまなく探し回りましたが、納屋の中に隠したんです」。
米軍がなぜそんなに必死にこのミサイルを取り戻そうとしたのかは、見た途端に合点がいった。沖縄について別の記事を取材したときに、こんな話にでくわしていたからだ。1965年12月、伊江島の北方150マイルあたりで、アメリカの航空母艦タイコンデロガが荒波にもまれた。船のデッキに置かれていたスカイホーク・ジェット戦闘機の係留綱がはずれ、戦闘機は海にすべり落ちた。それだけだったら、ニュース・ネタにもならない事故で終わったのだが、戦闘機には、1メガトンの核爆弾が搭載されていた。日本政府は日本の領海に核兵器を持ち込むことを禁止している。1989年に、装備からプルトニウムが漏れた可能性が指摘されてはじめて、あせりくるった米国防総省は日本政府に爆弾が行方不明になっていると知らせたのだ。
私の顔を浮かんだパニックにアシスタントは気づいたに違いない。「ご心配なく。これは、演習に使われていたダミーですから」。だが、ほんものそっくりだ。私の恐怖は簡単にはおさまらない。「触ってもいいですよ」、私は後ずさりし、アシスタントは笑った。
受付に戻ると謝花が、阿波根と農民たちの運動の成果を話してくれた。1966年、米軍が伊江島に地対空ミサイルの砲台2機を設置しようとした。だが島民たちの猛反対キャンペーンにあい、たった3日か後に撤去を余儀なくされた。こうしたデモと歩調を合わせて実施された広報活動(3冊の書籍とドキュメンタリー)が力を効して、軍は爆撃を中止し射爆場を閉鎖した。農民の多くは、1955年以来、盗み取られていた畑をようや取り戻すことができた。
謝花は机の引き出しから伊江島の地図を取り出した。島の西の部分が赤い点線で仕切られている。「いま、米軍が統括しているのは島の3分の1です。海兵隊の訓練エリアがあり、いまでもパラシュート訓練を行っています。2~3年前にパラシュートで降下した兵士が数人、コースから外れてたばこ畑に着陸しました。彼らは農民たちがなぜそんなに怒るのか、合点がいかないようでした。たばこの木がほんの2~3本、たぶん、たばこ1カートン分くらい、折れただけなのに、と。農民たちが過去50年間にわたって、どんな煮え湯をのまされてきたか、知らないからです。どんな苦しみを味合わされたか、思いもよらないのです」。
港へと戻る途中、私は、「アメリカが政策を変えて島の残りの部分も返還する日が来るという希望をお持ちですか」と聞いてみた。謝花は、ニヤっと笑った。「阿波根先生が口癖のように口にしたことばがあります。『どんなに邪悪なけだものや悪魔でも、あがないの手が届かないものはない。彼らもいつの日か、ひとになる時が来るかもしれない。彼らが必要としているのは、自分たちの道が間違っていることを示してもらえることだ』と。阿波根先生は、強く、そう信じていました。ですから、この博物館を建てました。だからこそ、博物館は、農民たちが[すべての]土地を取り戻すまで、ここにあり続けるのです」。
Translated by Hideko Otake
素晴らしい文章、翻訳ありがとうございます。
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