September 18, 2017
9月18日、アミラ・ハス東京講演2日目。その2(2/2)
アミラさんと『沖縄 うりずんの雨』のジャン・ユンカーマン監督との対話から、報告します。
沖縄の住民とパレスチナの人々とに共通する体験は?というアミラさん招へい者にしてこの日の司会者の土井敏邦さんの問いに、ユンカーマンさんは『沖縄 うりずんの雨』の英語版のタイトルに使ったことば”Afterburn”を引いて、語り始めた。
*癒えることを許されないトラウマ
ジャン・ユンカーマン:Afterburnとは、トラウマが、解消されない限り、傷がどんどん深くなっていく。これが沖縄の現状であり、沖縄にぴったりのことばだと思った。沖縄戦後、沖縄は米軍に占領され、絶えず戦闘機やヘリが飛び立ち、戦争が続いている。戦争から受けた傷が治らないまま続いているのが現状だ。アミラさんは、沖縄の人たちの戦争への新鮮な記憶に驚いたとおっしゃったが、距離をおいて過去と思えない状況がある。
過去ではなく現在もそうだという現実があり、辺野古・高江の反対運動には、そこから出る根強い決心がある。そうでなければ、20年もすわりこみが続くわけがない。
アミラ・ハス:パレスチナ人にとっても、ナクバは終わっていない。戦争後、回復する間もなく新たな襲撃にさらされ新しいトラウマを体験し、日り残酷な体験だ。というのも、確かに沖縄では事故や汚染、自然破壊、レイプをして当然と考える米兵の存在にさらされているが、現在、日常的な攻撃にさらされているわけではない。パレスチナの人々は、日常的に攻撃の対象とされていて、Routine of catastrophy 、すなわち、災厄が日常化している。もともと、catastrophyは一回性の例外的なできごととしての災厄を意味するので、routine ということばとの組み合わせにはそぐわないはずなのだが、副産物ではなく意図的な目的のもとに攻撃がおこなわれている。
*権力の構造がもつ普遍性
アミラ:パレスチナで起きていることは確かに極端な例だ。ではあるものの、アメリカやインド、アフリカなど世界のいたるところで貧困な地域社会で暮らす人々が体験している現実のメタファーといえるのではないかという思いもある。たとえ、民族紛争や植民地紛争のただなかに身を置いていなくても、貧困なコミュニティの人たちは権力の道具にされ、トラウマに次ぐトラウマのただ中で生きている。
*暴力と屈辱
ユンカーマン:屈辱を目的に暴力が行使されている。暴力は爆撃などの物理的効果ばかりでなく、せっかく建てた家をつぶされたり、大事に育てたオリーブの木を根こそぎにされるなど、精神的で屈辱的なダメージをおこす目的でふるわれる。パレスチナ人に消えてほしいから、殺せない限り、追い出すことが目的だ。絶望的な敵対関係が続いている。パレスチナも沖縄も占領だが、比べることは難しい。とはいうものの、アミラさんが、言うように、イスラエルが行っていることを、あまりにも特異でほかに例がない、比較ができないもの(exceptionalism)としない方がよい。
*支配の二重構造
ユンカーマン:パレスチナと沖縄の現状の共通点として、権力・支配の二重構造があげられる。1993年のオスロ合意により、27年間の占領から解放され、ガザでもある程度の自治権が認められて、イスラエル軍による直接の支配ではなく、パレスチナ自治政府を通してイスラエルに支配されるようになった。
沖縄では、1972年の本土復帰後、さまざまなことを日本政府が決めることになった。沖縄の人たちは、復帰までは米軍に対して直接、抗議を行っていたが、いまでは直接、抗議ができなくなり、動きにくくなった。米軍は、日本を守るためではなく自分たちの戦略のために駐留し、力で勝ち取った沖縄に居続ける特権があると思い込んでいる。日本政府は、日米安保のため米軍基地を必要とし、日本の大半の人たちの目からは見えない遠い地、沖縄に基地を置くことを好都合だと考えている。そこには、沖縄を植民地のように見る、沖縄差別も介在している。米軍に基地撤廃を訴えても日本の国内問題だと言われ、日本政府に訴えれば、アメリカの言い分には逆らえないといわれ、対する相手がみつからない。亡くなった大田昌秀元知事は亡くなる前、復帰は間違いだったかもしれないと口にしていた。
*ぜいたくな占領
アミラ:とても鋭い重要な指摘だ。いまのイスラエルの占領は、「ぜいたくな占領」といわれている。かつてパレスチナを直接、占領していたときには、イスラエルには占領者としての義務を課されていた。だが、オスロ合意後は、パレスチナ自治政府(PA)には、海外からの支援がなされている。世界に占領の費用を負担してもらうという構造を手にすることに成功したのだ。
しかも、本来なら、パレスチナ人民の権利を代弁するはずのパレスチナ自治政府は、イスラエルの権威を代弁し、パレスチナ人にそれを押し付けるようになっている。たとえば、水の分配は非常に不公平で、ある調査でわかったことだが、たとえば、イスラエルとパレスチナ自治政府との共同プロジェクトで、人口500人のイスラエル人入植地に直径12インチの水道管が使われるのに対し、人口2000人のパレスチナ人の村には、直径6インチや3インチの水道管しか敷かれない。自治政府は、12センチの水道管をリクエストしてもイスラエルが拒否するに違いないとそんたくして、ないよりはましだと、最初から3インチや6インチの水道管しか求めていなかった。一事が万事、そんな具合で、イスラエルの立場に立っている。
ユンカーマン:日本の「思いやり予算」に通じる。日本政府も、住民の声を聴かず、米軍の意図をそんたくしして動いている。
*問う伝統
「裏切り者」「非国民」との攻撃を受けても自国の加害を国外に向けて伝え続けることがなぜできるのか、という土井さんの問いにこたえて。
アミラ:権力を批判することは、ジャーナリストのごくごく基本的な存在理由だ。権力は、社会をコントロールし力を濫用しようとするものだ。それを批判することができないのなら、ジャーナリストである意味はない。
またユダヤ人には、問う伝統があり、権力に対決し挑戦することは私たちにとっては自然なふるまいだ。
また、たとえ購読者を失いかねないような内容であって、記者に報道する自由を認める「ハアレツ」紙で仕事できるは大変、幸運なことだ。
私は、アパルトヘイト下の南アフリカでの白人ジャーナリストなどのようないのちの危険をおかしているわけではない。ヒーローでは、ないんですよ。