2019年6月4日火曜日

立ち現れた記憶を引き継ぐ。NYでの『沈黙:立ち上がる慰安婦』上映会




「生存者は現在、22人。平均年齢が高齢化し、90歳台になっています。今年になってもう3人亡くなりました」

416日、マンハッタンのコミュニティ・カレッジで行われたドキュメンタリー映画『沈黙:立ち上がる慰安婦』上映会で、朴麻衣さん(パク・スナム監督の長女。監督を支え、編集・プロデューサーを担当した)は、慰安婦被害者たち本人に残された時間がごく限られていることを、あらためて明らかにした。

この映画が描いた天皇・日本政府の謝罪を求めて1990年代半ばに来日して日本にやって来た朝鮮の慰安婦たちの闘いに登場するハルモニたち15人中、生存者はわずか4名だとも言う。

おかした罪を隠蔽し政府同志のボス交で過去をもみ消そうとする日本政府と、天皇制を盾にして諦めを強いる日本社会の無慈悲。身ひとつで立ち向かい、知恵を絞り、怒りと嘆き、叫びの限りを尽くして恨(ハン)を晴らそうとするハルモニたち。その闘いの姿、さまざまな支援と立場の違いによる運動のぶつかり合いが映画はダイナミックにとらえる。

NY上映会での朴麻衣さん


『沈黙』の中心人物は、李玉先(イ・オクソン)さん。母を早くに亡くし、父親と幼い妹との三人暮らしだったオクソンさんは17歳のとき、日本人の男にだまされて列車に乗せられ北満州の「慰安所」に連行された。日本の敗戦後、なんとか故郷に帰ったが、家族にも体験を話せず、同じ村から連行された娘たちの中で生きて帰ったのが自分ひとりであったためいたたまれず、故郷を後にしてさまよい、19歳で山の中の村に住むようになった。慰安所で煩わされた梅毒に苦しみ、自らの子どもをもつこともなかった。40歳を過ぎてから、徴用で満州から帰ってきた5人の子持ちの男性に体験を語った末、結婚。だが、夫にも先立たれ、苦労をしながら、子どもたちを育て学校に通わせた、という。

若い頃、村のおじいさんが「これで身をたてなさい」とくれたチャング(太鼓)。それを打つ音が、まるでオクソンさんたちの生きる鼓動のように、東京の街に響き、スクリーンを通して見る者の身体と心を揺るがす。

謝罪と賠償の願いに聞く耳を持たず門前払いを試みる役人・政府、官庁・官邸前に立ちふさがる警察・警備員への必死の抗議、あまりにも悲惨なハルモニたちの体験証言の前にこわばる高校生たち。その緊張を一撃で破る底なしに優しい笑顔としみいるような素朴なことば。オクソンさんの魂の広さ・深さは、圧倒的だ。

文玉珠(ムン・オクチュ)さんもいる。16歳の時、外出中に日本の憲兵に拉致され北満州・ビルマで慰安婦にさせられた人だ。94年にはソウルの日本大使館前で抗議の割腹自殺をはかった。明晰で度胸があり、日本に謝罪・賠償を求める仲間たちの信頼を集めたが、96年に急逝した。

こんな風に気性も体験も、戦後の軌跡もひとりひとり微妙に違い、それぞれに重たい、慰安婦にされた方々の物語。


そうしたハルモニたちの激烈な苦闘を描きながら、それを映し出す合わせ鏡であるかのように立ち上がってくるのが、パク・スナム監督自身の毅然とした存在感だ。
上映会後、朴麻衣さんにいただいた『沈黙』のパンフレットはとても充実した読み応えのあるものだが、そこに記されたパク・スナム監督の在日朝鮮人二世としての戦いの軌跡を読むと、申し訳なさで息が詰まりそうになる。

例えば、こうだ。「天皇を神と信じてきた皇国少女」は、日本の敗戦と祖国の解放を同時に迎え、自分の名前が「パク・スナム」ということを初めて知った。1949年に父の強制で朝鮮中等学校に入学したが、同年、朝鮮学校閉鎖令が出され、棍棒をふりあげる警官にスクラムを組んで立ち向かった。この時のことをスナムさんは、インタビューでこう語っている。
「運動場に何百人もの生徒が追い詰められ、樫の棒でめった打ちにされ、血まみれになった。私たちまだ子供ですよ。私はとっさに『逃げると殺される―』と叫んでいました。そしてスクラムを組み『朝鮮人が朝鮮人の学校に行ってなぜいけないんですか』と詰めよった。これが私が権力と向き合った初めての体験でした。十三歳です。このとき、自分が自分であることを押しつぶす強大な権力があること、自分が自分であることは闘い抜きにはありえないということを体ごと教えられたのです」

二十代になったスナムさんは、女子高生ら2人の女性を殺害した(「小松川事件」)在日二世の少年李珍宇(イチヌ)と文通・面会し、姉のような存在として支援・助命活動に携わった。死刑執行後、出版した往復書簡集は在日朝鮮人差別問題をはじめとする問題を提起したが、北の共和国から反国家的人物として否認される結果となった。また三十代で韓国留学を志したときには、国家への忠誠を求める韓国政府から入国を拒否されるなど、二分した同胞社会を背景にアイデンティティを求める闘いが続いた。

1965年には広島や筑豊炭田はじめ九州の炭鉱で在日一世の体験を記録をはじめ、歴史の中で語られてこなかった朝鮮人犠牲者の存在を掘り起こし、生涯にわたる沈黙の声を聴く旅が始まった。それから20年後、50代になってから私財をなげうって映画製作を開始。第一作『もうひとつのヒロシマ―アリランのうた』の上映運動が2作目『アリランのうた―オキナワからの証言』制作につながり、沖縄戦にかりたてられた朝鮮人軍属・慰安婦犠牲者を描いて、慰安婦問題を世に知らしめる端緒をつくった。

その後、第三作『ぬちがふぅ(命果報)―玉砕場からの証言―』を経て、2017年公開の『沈黙』は第4作目となったが、映画に登場する「国民基金」の受け取りをめぐる厳しい闘いを経て、2015年に安倍政権と朴槿恵(パククネ)前政権とが交わした「慰安婦問題日韓合意」に対する対応、真相究明を放棄し「慰安婦」への直接の謝罪を抜きした日本政府からの「見舞金」の受け取りの賛否をめぐり、生活費にも事欠いていた慰安婦の支援者としてのスナムさんも矢面に立たされることになった。

2015年の「合意」を盾に、悪かったともういったじゃないか、金も払ったじゃないか、いつまで恨みを言い続けるのか、という声が日本社会の中では聞かれるらしい。天皇の責任を問うと敵意にも近い反感が渦巻く。

だが、日本の人々は本当に謝罪したのか。自分たちの国が何をしたのか、国民は何に加担したのか、知ろうとしたのか。真相を究明する努力をしたのか。二度とおこならい歯止めを作ったのか。ヘイトが消せず、はびこり続けているいまをどう説明するのか。

YOUTUBEでみた、『ぬちがふ』上映時の監督挨拶でスナムさんは、この作品で「植民地時代の、国が奪われた歴史」を掘り起こそうとしたとし、こう語っている。

「どういう風に生きてきたのか、そして殺されていったのか、このひとつひとつの記憶を掘り起こすことは、闘いでした。ものすごい闘いです。いまも日本の国はずっと隠蔽してきています。強制連行された軍属や慰安婦たちがあの戦場でどのように殺され、どのように死んでいったのか、特に米軍戦車への体当たり、そして米軍陣地への切り込み、玉砕というのは神の国、日本と天皇陛下のために米軍と戦って死ぬこと、玉と砕ける、名誉の戦死であるはずなんですが、これを最前線で日本軍の兵士たちは日本刀と銃剣で植民地朝鮮人と植民地沖縄の少年や防衛隊員に強要した。特に阿嘉島では切り込みを果たした日本軍のうちの半数以上が、その直前にかりたてられた軍属たちだった。生き残ったのは、ほとんど逃げ帰っています。43人ですね。わずか死んだのは16名。それも避難壕の中で割腹自決をしている。・・・実際にあの戦争を闘ったのは、沖縄のこの戦争は、アメリカと日本の戦争ではなかったんだよ。実はあの戦争で闘ったのは、闘いを強制されたのは、朝鮮人の軍属と沖縄の自分たちだったんだ。」そして映画を撮っていく中で「日本帝国主義に国を奪われた琉球と朝鮮の民族たちがようやくお互いの体験を語り合う中で我々は兄弟だったんだ、いちゃりばちょーでー」だと思えるようになったと。

あの戦争は誰にとっても悪夢だった。命令されてやった、仕方なかったのだと、日本の国民がそれで幕引きをしようというのなら、せめて沈黙を破ってたちあらわれた声に真摯に耳を傾け、なにをしでかしたかを見つめ、記憶を引き継ぐと共に、あやまちを繰り返さない努力を忘れてはならない。そしてそこには、過去の責任を問い、果たすことが、ぬきさしがたく出てこないはずがない。政権が、次は誰を戦車に向かって走らせようとしているのかを、自覚・自戒するときなのだ。


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