というわけで「ちょっと長い『はじめに』」に続いて、ようやく本番です。2015年6月21日、那覇で。(まとめ・写真:大竹秀子)
石川真生さん。ま、まずい、逆光だった! |
まず、歩きなさい
―――去年来たときにコザと金武を車でさっとまわったんだけど、昔の感じはもうあんまりない?
石川真生: どんどん壊していくから。「沖縄らしい」とみんなが思うような風景を壊して、東京の風景と変わらない。いままた、コザの隣のところに北中城村ってあるでしょ。そこにでっかーいモールが出来た。ヤマト資本だけど、イオンていうのが、返還された米軍の跡地を地主から買ったのかな?これにみんなが行列して行く。風景はもうまったくどこにでもある大型ショッピングセンター。
―――沖縄の地元の人が行くの?
真生: もちろん、住んでる人が行くんだよ。だけど沖縄ってさあ、中国人とか台湾人とか外国の観光客がいっぱいいるから、その人たち相手の商売の仕方をそこでもしてる。普通、観光バスってでかいバスは奥の方に停めるらしいけど、ここには手前の方に観光バスが駐車するスペースがあるんだって。それもねらいなわけ。日本人は中国人の悪口よく言うけど、中国人の観光客には来てほしいわけよ。中国の観光客も、別に日本人と交わることなく、買い物だけして帰る。私、もったいないなと思う。お互い疑心暗鬼なところあるから、いいチャンスじゃない?観光とセットでいいから、地元の人と交流する、一緒になにか作るとか音楽を聞くとか、なんでもいいよ。コミュニケーションする場を作ったらもっと喜ぶと思うけどね。人と触れないで帰る観光って、もったいないよね。
辺野古もそうさ。ゲート前だけで帰らないで、地元を歩いたりとか、運動してない普通に暮らしてる人と話す機会がないのかとかね。その人たちから意見聞いたほうがいい。私は、知り合いが来るっていったら、「歩きなさい」って言う。その方がいいよ。どういう地域だから、こういうのを守りたいのか。部落も見ないで帰るってなにごとっていう感じがする。静かな田舎を守りたくて行ってるわけじゃない? だったら、田舎を散歩してもいいんじゃない? とってもいいとこだから、あそこ。
地元で声をあげるのは大変
辺野古で。ベトナム戦争時代には戦地に赴く兵士が湯水のように お金を使った。さまざまに落書きした1ドル札がいまも貼られている。 |
―――去年、辺野古の集落に行って住んでる人の話を聞けたんだけど、1本だけ、島袋文子さんだとかが住んでいる反対派通りと呼ばれてる地区があるけれど、ほかの人たちはおおっぴらに反対できない、反対派への応援もこっそりみたいなこと、聞きました。
真生: 田舎って行事が多いし、どこそこのおうちのだれだれは何してるってわかるような感じでさ。そこで意見を言うっていうのはよっぽど勇気がいると思う。隣も賛成派、あそこも賛成派となったら、オバアもオジイもちっちゃくなるよ。
―――顔役さんみたいな人がいて、仕切られてしまうって。
真生: 区長も投票というよりかは、慣習として、上の人たちが決めてくみたいな。民主主義は通らないのよ。
―――高江がわりと最近、村長選挙やったけど、20年ぶりっていってましたね。
真生:年寄りが多いからさあ、聞いちゃうわけよ。体力もないし、気力もないから。それにオバアたちは昔の教育受けてるからさ、ちっちゃくなってるんじゃないかなあ。男を立てる年代さね。ボスっていうのは大体、男だからさ。ついていきますよ、間違ってても。文句言わないで。で、友達同士になると、文句いうわけ。
基地での暮らし
―――真生さんがバーにいた頃って、まだアメリカで徴兵制があった時代?
真生: ベトナム戦争の頃はそうだけど、私がいたのは1975年、米軍がベトナムから全面撤退した年だからどうだったんだろう?でも私の友だちの黒人兵はもう亡くなったんだけど、ちょっと軽犯罪をおかしたのよ、貧乏たれだからさあ。自動車泥棒したんだよ。そしたら警察に言われたってよ。「お前、刑務所行くか、軍隊はいるか」って。で「はい、軍隊、はいります」。それで沖縄で私と知り合ったわけ。
―――その頃って、どういうときに基地の外に出てきたの? いつでも出てこられるわけじゃないんでしょう?
真生:いやいや、時間になったら帰ればいいから。
―――平日でも?
真生:平日も兵隊は出てきて飲み屋に来るわけ。時間通りに帰ってくればいい。中には朝まで隠れて出勤までに間に合わせて帰るっていうやんちゃ坊主もいたけどさ。
―――基地の外に住んでもいいの?
真生: よかったの。その頃は円よりドルが高いから、ぺいぺいのよ、もうすごいランクの低いのがアパートに住めたのよ。私の彼氏も、私が一緒になったときは、まだ下から2つくらいの階級で、ぺいぺいだよ、給料安くて。それでも街の中の安いアパートに私と一緒に同棲して。私、そのとき、バーで働いていたけどやめて同棲してたからさ。1ドル360円の時代だったから、いまですればへたすりゃ4倍くらいの値段の差でしょ?
―――で、毎朝、出勤していくわけ?
真生:そうだよ。朝行って、夕方、帰ってくるわけさ。夜勤があるときもあるけど。職種によるのよ、勤務体制は。
―――昼間は、基地の中で何してるの?
真生: それは職種によるけど、機械や車両を修理したり、鉄砲の練習したり、いろいろ分かれてる。夜は自由に基地の中のクラブで遊んだり、部屋の中でテレビを見たり、外の街に行ってちょいと女の子をからかったり。
基地経済ではもうなりたたない
店じまいした辺野古のバー |
―――いまも?
真生:いまもそうだよ、同じだよ。ただ、いまはもう、外の方が物価が高いから。基地の中のクラブで安い酒を飲んでさ、ちょっとだけ外に出て、1杯、2杯、飲んで帰るみたいな合理的なことしたり、週末だけ出たり、あるいは月2回のペイデーのときだけ、出てくるとかさ。もうけちけちになってる。だから街もどんどん経済がなりたたないで、お店、シャッター閉めたり。経営者自身が年とって後継者がいないっていうのもまたひとつの理由だけども。日本のクラブっていうのはさあ、隣にホステスがいたりとか、すわってお酌したりとか、ちゃんとおしゃべりしないと機嫌悪いとかさあ、うるさいじゃん、日本人って。
ところがアメリカ人はほっとく。気楽さね。店の女の子の服装も自由だし。そういう自由さがいいわけよ、経営者にしても働く人にしても。その経営者が昔は若かったけどどんどん年とってオバアになるさ。オバアになったら、日本人、金はあるけどうるさいから難儀だなあ、もういやだなあという人が多くて。日本人相手のスナックとかクラブに切り替えるのよりかはもう店閉じよう、と。自分の身体、しんどいし。で、シャッター閉めてる。
アメリカ人相手では、もう経済がなりたたなくなってるわけ。だから、ひところみたいにね、基地に依存しないと食ってけないとかね、なんちゃらかんちゃらは、昔の話。むしろ、それよりかは、基地が返された土地にはそこに町が出来て発展してるからさ。その証拠が北谷町だったり。繁栄してる。それがもう示してるわけ、基地が返還されても食ってけるんですよって。むしろ基地で募集する従業員よりも、日本人の町にした方が募集する従業員が多いっていう統計が出てるの。経済的には、返還された方がいいっていうデータがある。
ただ、米軍基地ができたっていうのは、米軍の政策でできたわけだから、沖縄の人たちはそこで働かなければ食っていけなかった。戦後すぐの状態だからね。家も田畑も何もかも焼かれて、あるいは盗られて、働くところが米軍基地しかなかった。それがそのまま続いてるわけだからさ。国の政策で基地があるわけで、ほかの民間の会社とは違うからね。そこにいる従業員っていうのは、昔よりかはどんどん減ってるけれども、だからと言って、もう基地閉じるから、あんたたち勝手にしなさいってほうりなげるのは、あまりにも情けないでしょ? それは計画的に、国自体が、あるいは県自体が、基地で働けなくなっても、後の就職っていうの、面倒をみるのが筋だと思うのね。でも度が過ぎたら、民間だってさ、非常に貧乏で仕事がなくてあっぷあっぷしてる人がいっぱいいるから、あまりにも温かくやりすぎたら、民間から嫉妬されると思うのね。その辺のバランスはあるかもわからんけど、基地がなくなってもいいように、経済をどうする、失業者をどうするって、今からちゃんと考えた方がいいと思うよ。それが追いついてないと思う。
米兵大好き 米軍大嫌い
―――基地がいいか悪いかは別にして、基地があって、そこで人が出会う。例えばコザの風景が変わって、普通に出会ったり、話したり、友達になったり。そういう場所がない?
真生:兵隊がうろうろしているような基地の町に行ったら、はじめは、まずびびると思う。やっぱりちょっとこわいじゃない? 兵隊、背が高いし、かたまってるし、雰囲気、全然違うし。こわくてはいっていけないじゃん。慣れればごくごくふつうの人たちさ。
だけど私が人にいうのはね、沖縄はね、コザとか金武とか行ったら兵隊がうろうろしてる、いっぱいいる。小さなバーにはいってアメリカーらしかったら、大体はたち前後の若い子たちだから、いっぱい酒でもおごってみい。そしたら、その子たちはまだ軍人としてしっかりしてないから、なんでもぺらぺらしゃべる。「どこから来たの?」とか、別にどうってことない会話はできるから、「生い立ちとか、聞きな。そして、友達になりなよ。週1回でもいいから友達になって、アメリカのこととか、兵隊の生活のこととか聞けばいいんじゃないの」って言うけどさ。
でも反対運動してる人の中には「なんでアメリカ人と話ししなきゃいけないの」っていう人もいるのよ。はじめから嫌う、拒否する。
『沖縄ソウル』真生さんのフォト&エッセイ。必読! |
真生:私は結構、おすすめするのよ。兵隊だってさ、私が会った兵隊は、上の階級の人ではなくて、ぺいぺいだから。皆、大体さ、貧乏なおうちが、多いのよね。ふつうのおうち、なんでもないおうち。金なくって。アメリカだって学歴社会だからさ、いい学校出てなかったら、もう仕事も大変さね。まして移民だったら英語もみんなよりかあんまりしゃべれないから、軍隊の方がはいりやすいからさ。家族も多いから、昔の日本人みたいにして、入って家族に仕送りをしようっていう律儀な子も多いわけよ。てっとり早いのが、軍隊さね。
だからそういう子っていうのは、私ははっきりいって同情するところがいっぱいあるわけさ。その子たちがたとえばイラクに行って殺されたり、人を殺して帰ってくるじゃない。帰ってきてPTSDになって病院に通ったりとか、あるいはまったく考えてなかった反戦運動にはいった子もいるしさ。どんな時代も、人間愚かだから戦争はとまらんよ。どの時代もはたち前後の若い子が命落とす。もったいない話さ。
―――まだ、子供だよねえ。
真生: だからもう、犠牲者だと思ってる。時の政権の政治家と兵隊を、私は区別してるのね。真っ先に人を殺すけど、真っ先に殺されもする。だから私は、兵隊は大好き。米兵大好き、愛してる。米軍大嫌い。
―――うん、わかった。
真生: 反戦運動やってる人に、石投げられるよ。「ひとりひとりの兵隊の集まりが米軍じゃないか」と。「米兵の集まりが米軍だろう」と。いや、理屈はそうだよ。それでも、そう簡単に白か黒かじゃないんだ、と。私はひとりひとりの兵隊にね、バーで、あるいは働きながら会ったことがあって、どの時代も、皆、似たようなバックグラウンドだよ。そう変わらん。私はその子たちに同情するし。戦争を止めたいと思うなら、そのときの政治を批判するのであって、政権を批判するんであって、その子たちひとりひとりに罪を負わせてもしょうがないんじゃないか、と。
確かに私はテレビでイラク戦争のときに兵隊が、ばんばんばんと民間人を殺してる、そういう映像が出てきたから、もう頭に来たし、すごいショックだったし、怒りだったよ。でもさ、金武の町、うろうろしてね、PTSDにかかってる子にときどき会うのよ。イラクでおかしくなって帰って来たことがわかるわけ。話きくわけ。
ひとりインディアン[先住民]の血を引いてるやつがいて、そいつはね、6年間に6回、イラクに行かされてたの。年に1回。これはね、バーのママが言ってたけど、異常だと。そんな回数、行かされないって。で、この人は早く帰りたいわけ、本国に妻子がいるから。だけど、返してくれない。願いを出してるけど返ってこなくて。彼自体はPTSDになってて、カウンセラーに通ってる。帰りたいけど、帰れないっていってたよ、私に。私、この人の写真撮って本に載せたけどさ。展示会にもバーのママが連れてきてたよ。その後聞いたら、やっと帰れたって言ってたけど、バーのママいわく、「完全なインディアン差別だよ、これは」って。
黒人のだんなと沖縄と鹿児島とのハーフの女との家族がいて、息子が2人。この家族と私も私の娘一家も仲良しになったわけ。子供が似た年だからさ。で、奥さんが言ってたけど、「うちの旦那はね、まだイラク戦争が始まる頃だったんだけど、部隊から誰も行かされないのに旦那ひとりだけ行かされた」。「絶対、黒人だから行かされたのよ。軍の中にもやっぱり黒人差別ってあるのよ」って。この人、高校を卒業して軍隊にはいったんだけど、その後、アメリカの軍の中の大学に行って、向上心があるわけ。すごく頭いい男でさ、どんどん出世して、いま上の方のランクになってるの。だから、おかあちゃんも心配してさ、「戦争行って死ぬかもわからんから、やめて。自分も働くから」って言ったんだけど、「俺みたいに、黒人で階級あがったの、そういない」って。「だから俺は、黒人に、がんばれば階級あがるんだよっていうのを見せたい」と。
で、もうひとつは、安定した給料が出ないんだって、アメリカで。すごい就職難でね。家族がいるさ、息子が2人いるでしょ、「俺は家族のためにやめられない」って言ったから、奥さんもなんともいえなかった。で、彼女は「たとえ米兵の奥さんであっても、いろいろ考えたり反対してる人いるのよ」と。だけど「愛する父ちゃんの仕事をどうしようもないんだっていう奥さんだっているのよ」って言ってた。その通りだろうなと。
私と私の娘一家はその家族が大好きで、私は米軍批判するし、彼は私がどういう写真を撮ってるか、どういう主張・信条かわかるのね。だから、お互いにお互いの立場を尊重して仕事のことにはけしてふれない。これが私は仁義だと思ってるから。そういうつきあいだってあるわけじゃない?
ブラック・イズ・ビューティフルの時代
―――うちのやつが来た頃は、バーも人種で別れてたって。
真生: 少なくともコザと金武はバーが黒人専用ってわかれてたのよ。辺野古は小さな町だから、わからないけど。兵隊って音楽によって行く店、決めるから。ソウルミュージックばっかり流したら黒人ばっかり集まるし、ロックだったら白人ばっかり集まる。そんなしてそこが自然に専用みたいになっちゃうんだよ。コザの場合は、町自体がエリアとしてわかれてるのよ。車で行ったら5~6分くらい離れてるわけ。だから、旦那が行ったのがコザだったら、照屋っていう町だし、金武だったら黒人専門のバー。金武は私が働いていた店を含めて、たぶん5本の指におさまったはずよ。白人のバーが圧倒的に多い。人数の比率によるさね。
私が働いていたのは70年代だけど、アメリカの黒人の公民権運動のすごく高まったのって60年代。その前まではすごい差別があったわけじゃない?ここに来たら兵隊は、黒人だらけだから、すごい気楽だったと思う。部隊の中ではさ、みんな、グリーン一色だから喧嘩は抑えるけれど、外に出たら喧嘩したりなんかしたのよ。
コザの黒人街にね、慣れない来たての白人がたまに迷いこむわけよ。情報得たら、みんなで「よし、コロしにいくぞ」って言って行くわけ。沖縄でね、「死なす」っていうんだけど、これはほんとに殺すんじゃなくてぼこぼこにやっつけるっていう意味。それを日本人が聞いて「え、殺すんですか!」っていう。「ちゃう、ちゃう。ぼこぼこにやっつけるっていう意味なんだよ」っていうんだけど。「それいけー」っていってみんなで一斉に行くわけ。バーがからっぽになって。1回だけ鮮明に記憶してるのよ。「白が来たから、やっつけに行こう」っていって兵隊がみんなでわーっと出ていって、私、意味がわからんかったけど、パチパチパチと手を叩いたことだけは覚えてる。
ちょっとだけ英語がわかるようになった頃だったから、やっつけに行くんだっていうことだけは、わかった。「この白人、かわいそう!」と思ったけどさ。そのぐらいに対立してた時期なの。
―――でもいまはもう、バーがわかれたりはしないんでしょ?
真生: いまはしないけど、やっぱり音楽。そこのママ、店が何が好きかによって。黒人が白人の友達、連れてきたりできるわけ、いまはよ。だけど、カントリー好きな黒人ってそういないから。
―――いませんねえ(笑)
真生: コザにいた頃、BC通りっていうところとか、もうちょっと嘉手納基地に近いところは白人街で、そこに大きなディスコがあったの。そこに、休みの日に照屋からバーの女と黒人の兵隊とたとえば10名とか集団で行って、真ん中のフロアーで踊ったの覚えてるわけ。白人の踊りなんて、ださいからさあ。黒人て、上手さ。女たちも上手になるさ。まわりがみんなひいて、見てるわけ。自分たちは得意気に踊るわけよ。縄張り争い。よく覚えてる。私は意味わからんでついてったけどさ。気持ちよかったよ。
―――「ブラック・イズ・ビューティフル」の時代だよねえ。
真生: 私の写真で残ってるけど、ポスターでさあ、女の人のアフロでブラック・イズ・ビューティフルって書いてある。蛍光塗料かなんか塗ってあって、夜、電気消したら光る。そういうポスターが流行ってたからさ。とっときゃ良かったなあ。でも引越しが多い人だから。そう、「ブラック・イズ・ビューティフル」っていう時代だった。
プライドがアップしてきてた時代だよ。私のいた店もさ、私は目撃しなかったけど、「あそこはブラックパンサーが多いお店だよ」っていって紹介されて働いた。「ブラックパンサー」の意味もわからないで、ただ紹介されたからだけだった。もし、白人街の店を紹介されてたら、私はそっちに行ってたからさ。別に黒人に興味があるから行ったわけじゃないの。兵隊がいるAサインバーで働こうとしか決めてなくて、知り合いの新聞記者に聞いたら、あっち行けっていわれたから、あっちに行った。そしたら、気が合った。「沖縄人対ヤマト人・日本人」、「黒人対白人」、この図式が似てたのよ。
―――よくわかる。
真生: もそれは、つきあってからわかったの。それまでまだお子ちゃまだから、わからんわけよ、世間が。社会も何もわからんからさ。22歳ではいって働いたからね。その前っていうのは、別の写真撮ってて、その前は、学校だからさ。撮りながらいろんなことを吸収していった。知識も吸収したし、ひとの話からも得てるものが多かった。私にとってはあの頃はもっともやりたい放題やりまくり。その後も「やりまくり人生」ではあるけど。楽しかったよ。
「米軍は嫌いだけど米兵は好き」って気持ち、よくわかります。
返信削除最近仕事でPTSD関連の取材同行通訳やってるとね、反戦運動してる退役軍人とか、精神面でのカウンセルやってる専門家とかにお会いしてお話を伺う機会が多く、ものすごく考えさせられます。
人間の心ってわれものみたいなところがありますよね。一度、こわれてしまったら、傷と一緒になんとか生きてかなきゃいけないみたいな。戦争、いやです。記事、楽しみにしています。
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