July 10, 2017
文=大竹秀子
ヴィンセント・チン |
つばを吐かれたことがある。
真昼間のNY.街を歩いていただけなのに。
相手は、若者とも中年ともいえない年頃の白人の男。数歩後ろにいた私の急ぎ足がそいつの歩調と、ぴたっと合ってしてしまった。後をぴったりつけている感じ。いやーな気分が、私にだってしたのだ。そいつは、振り返り、ぎろりとねめつけてから言った。「おまえのような細いきつね目のやつらのおかげで、なんたらかんたら」。「なんたら、かんたら」が、聞き取れなかった私は、つい「え、なに、な~に?」と聞いてしまっていた。男の目が憤怒で燃えあがり、顔面ねらってつばが飛んできた。
幸いこちらは、左折する瞬間。直進を続ける男のコントロールは狂い、つばは地面に落ちた。一瞬、頭は真っ白け。それから、無性に腹が立った。去って行く男に向かって、中指たてて「ばっきゃろー」と叫んでた。それで終しまい。
だけどあの時、あいつがあいつではなく、私が私ではなかったら、あるいは、あいつはあいつで私は私だったとしても、たとえば、あれが夜で、あたりに誰も歩いていなかったりしたら、まったく違う、恐ろしい結末に終わることだってあり得たのだ。
結婚直前に絶たれた命
この6月、ヴィンセント・チンという、なかば忘れかけていた中国系アメリカ人青年の名を久方ぶりに耳にしたとき、この出来事を思いだした。35年前、デトロイトで起きた殺人事件の被害者だ。あの事件だってきっかけは、ほんのささいなことにすぎなかったはずだ。ヴィンセント・チン、「日本人と間違えられて殺された人」として、当時、日本でも静かな話題を呼んだ人物である。
事件の顛末は、次のように記録されている。1982年6月19日夜、27歳のヴィンセント・チンは、友達3人とデトロイトのストリップ・クラブにいた。2日後に結婚式をひかえ、独身時代最後の「バチュラー・パーティ」。独身男の年貢のおさめ時。結婚後、良き夫になる前、最後に羽目をはずして騒ごうぜ、という夜だった。ささいなことから喧嘩が起きた。相手は、クライスラーの工場で働くロベルド・エベンスと息子(甥を養子にしていた)のマイケル・ニッツ。ニッツも、自動車会社で仕事していたが、つい最近、レイオフにあったばかりだった。口論となり、激高した白人のエベンスがチンに向かって「お前らのような、ちんけなマザー・ファッカーのおカゲで、俺たちが失業するんだ」と言ったとする証言が残っている。
デトロイトの恨み
「モータータウン」として栄え、全盛期には住民の半数が自動車産業に従事したデトロイトだが、時代は変わっていた。安価で安全、コストパフォーマンスが良い日本車の人気におされ、クライスラーでは、自社製品を減産し、日本産の三菱の車を輸入し、クライスラーのブランド名をつけて販売し、レイオフに拍車がかかった。1982年のデトロイトの失業率は17%。当時、日本の自動車会社は、まだアメリカでの生産を始めておらず、日本は、アメリカの職を奪う、恨み骨髄の相手とみなされた。日本車をハンマーでたたきつぶして気勢を上げる抗議イベントが、人気を呼ぶ。そんな時代だったのだ。
恨みはわかる。が、日本人だからって襲われてはたまったものではない。おまけにヴィンセント・チンは日系ですらなかった。9.11後に、ターバンを巻いたインド系のシーク教徒がアラブ系だと思い込んで殺されたこともあった。ヘイトや偏見は、相手が「~のようなもの」であれば、十分。結局は、うさばらし。似て非なるものの存在など、配慮しようともしないのだ。
その夜、両グループの乱闘となり、全員がストリップ・クラブから追い出された。ここで、一度は散会になった。が、エベンスの腹はおさまらない。住民の9割が黒人をいわれるエリアで、黒人青年に金を払って、チンの行方を捜させた。まもなく、マクドナルドにいる姿をみつけると、野球のバットをもって追いかけ、ニッツがチンを羽交い締めにした。目撃者の証言によるとエベンスは、「まるでホームラン・バッターのようにフルスイングでチンの頭を殴った」。チンの頭は割れ、脳みその一部が地面にとびちっていたと目撃者は証言している。
チンは救急車で病院に運ばれたが、脳死状態と診断され、4日後の6月23日、生命維持装置を外す形で世を去った。意識を失う前、最後に口にしたことばは、「こんなの不公平だ」だった。
後味の悪い事件だったが、エベンスに相応の処罰が科されていれば、すぐ忘れられただろう。が、とんでもない判事によるとんでもない判決が、司法制度にしみこんだ差別と不公平をあぶり出した。検察は第2級謀殺で起訴しエベンス本人ですら、「刑務所行きを覚悟していた」。なのに、郡裁判所判事は、故殺で執行猶予3年、罰金3780ドルの判決をくだした。人を殺したのに刑務所に行かない!白人判事の言い分はこうだった。「被告は2人とも前科もない。刑務所に送るのは、彼らのためにならないし、送っても社会が得するわけでもない。刑罰は犯罪に対して科されるものではなく、犯罪者に対して科されるものだ」。物言えぬ被害者、遺族への配慮は、ひとかけらもない。
結婚を目前にして殺されたアジア系の青年の命は、そんなに軽いのか。アジア系の人たちがこの判決に衝撃と怒り、怖れを抱いたのも、当然だ。
アジア系がひとつになって声をあげた
アメリカの人種偏見・差別というと、黒人が真っ先に思い浮かぶ。だが、1882年の中国人移民排斥法、1917年と1925年の移民法、第2次大戦中の日系人の強制収容など、アジア系も移民として排斥され、二級市民として差別され、時に下げずまれ、憎まれ、惨殺されることさえある歴史をたどってきた。静かに堪え忍び、模範的市民になることで尊重され、社会の一人前の構成員としてうけいれられようとがんばってきた。
だが、ヴィンセント・チンへのあまりにも理不尽な処遇にアジア系の人々も、堪忍袋の緒が切れた。日本での報道は、「日本人に間違われた」ことを強調するものだったが、アメリカのアジア系の人たちの間に、「日本のせいで割をくった」という攻撃の声は、なかった。むしろ、中国系もフィリピン系も日系も韓国系も、さらにインドなどの南アジア系までもが、「自分たちの問題」として団結した。また、有識者だけではなく、クリーニング店やレストランで働く人など、それまで政治機構や社会機構に訴えかけることなどなかった庶民がたちあがり、いまでいうなら「私たちの命も大切」とばかりにキャンペーンを張ったのだ。
はじめは、公民権系の司法団体の腰は重かった。1980年代だから、もちろん、公民権法は、とっくに成立・実施されていた。が、1960年代に黒人差別との闘いの中で生まれたこの法は、もっぱら、黒人専用の法とみなされていたのだ。
州法がくだした判決をくつがえすためには、連邦法である公民権法が犯されたとして連邦裁判所に提訴する必要があった。ヴィンセント・チンがアジア系だったために殺され、公民権を奪われたとして訴えるのだ。だが、実際には、なかなかにハードルの高い提訴だ。
ようやく、実現した連邦裁判所での裁判。1審では、エベンスは有罪とされ、25年の刑が申し渡された。が、控訴の末、判決は逆転され、1986年に無罪が確定した、アジア系の中で、連帯の輝かしい歴史が刻まれたのだ。
繰り返されるヘイト
ヴィンセント・チン殺害事件から35年。ここ数年かの「黒人の命も大切(Black Lives Matter)」運動の盛り上がりが示すように、警官による黒人殺しがアメリカ社会を揺るがせている。レイシズムとして抗議の声はあがっても黒人を殺した警官に有罪判決がくだされることはきわめてまれだ。法執行機関と司法制度にしみついた制度的レイシズムは、社会をむしばみ続けている。さらには、富みと繁栄から見放された人たちの鬱憤と不安を国内外の「他者」に向けさせようとあおるトランプの政権下で、ヘイト・クライムが増え、狂暴化し、社会はすさんでいる。
偏見やレイシズムは、多くのひとが抱えるやっかいな病だ。ごりごりの人種差別者ばかりなら、いっそ、話は簡単だ。だが、ヴィンセント・チンを殺害したエベンスや、黒人を殺害する警官たちの多くは、そこらにいる私やあなたと同じくらい、あるいは、ちょっとだけ多くの偏見の持ち主であるに過ぎない。問題は、そのちょっとの偏見の持ち主である警官が、仕事がら、人を殺せる武器を与えられ、公職者として圧倒的に優位な権威を手にした時、その偏見に大きな暴力をふるう素地が与えられてしまうことだ。そしてさらには、ささいな行きがかりで犯されてしまう殺人や暴力行為が、私やあなたと同じくらいの、あるいは、ほんのちょっとだけ多くの偏見の持ち主である判事や陪審員の手で無罪を勝ち得てしまうことだ。こうして、似たような事件が次から次へと繰り返されていく。
世に偏見をもたない人なんて、まずいない。誰もが、なんらかの偏見の被害者であり加害者であり、加担者なのだ。だからこそ、自分がもつ偏見が行為となって悪さをしないよう、可能な限りの努力をすると共に、偏見を押さえ込む社会的な制度・装置を仕掛け、それが生きるよう目を見張らせる必要がある。偏見を助長し利用する勢力を見逃してはダメなのだ。そして、起きてしまった出来事を見据え、語り続けることも重要だ。
「息子を殺される母が2度と出ないように」
ヴィンセント・チン殺害をどう見るか。私の心に刻みつけてくれたのは、ドキュメンタリー・フィルム『誰がヴィンセント・チンを殺したか?(”Who
Killed Vincent Chin?”)』を制作・監督した2人のアジア系女性クリスティーン・チョイとルネ・ダジマ、そしてマイケル・ムーアだ。
『誰がヴィンセント・チンを殺したか?』 |
1989年にアカデミー賞候補になった『誰がヴィンセント・チンを殺したか?』は、殺害者エベンスにも公平な目配りをした作品だが、圧倒的な主役は、ヴィンセント・チンの母親、リリーだ。中国で生まれたリリーは、中国系アメリカ人の花嫁としてアメリカにやってきた。子宝に恵まれず、中国の孤児院からヴィンセントを引き取って育て、愛し、ヴィンセントの結婚後も一緒に暮らそうと楽しみにしていた。リリーの英語は、渡米後30年以上たっても、とてもつたない。だが、息子を殺された無念をなんとか晴らそうとテレビの取材も受け、たどたどしくことばをつなぎながら、必死の形相で訴える。「もう何をしたって、ヴィンセントは戻ってこない。でも、私は、他のお母さんが、こんな目にあうのはいや。そんなことが、起きないようにしたい」、それがリリーの悲願だった。
映画のラストシーンは、連邦裁判所の控訴審で敗訴が決まったときの映像だ。観衆の前でスピーチをしようとするリリー。だが、悔しさ、悲しさ、怒りで、どうにもことばでない。固く固く握りしめられた握りこぶしをカメラはとらえる。ようやく、しぼりだしたような声でリリーは、いう。「私はただ、正義がほしいのです」、と。
マイケル・ムーアのまなざし
このブログを書くため、リサーチしていてみつけたのが、1987年にデトロイト・フリー・プレス紙に掲載された「ヴィンセント・チンを殺した男(”The
Man Who Killed Vincent Chin”)」というタイトルの記事。マイケル・ムーア著とある。そう、あのマイケル・ムーア、まだ無名時代の仕事だ。
ジャーナリストの取材を一切拒否していたエベンスが、控訴審の判決を待ちながら、はじめて受けた取材記事だと、前文にある。読み進めるうち、少し不安になってきた。登場するのは、エベンスばかり。被害者の代弁者ともいえるリリーの取材はなく、加害者であるエベンスの一方的な自己弁護が延々と続く。が、やはり、マイケル・ムーア。泣き言めいたエベンスの言い分をすべて聞いてやった後、ムーアは、さらりと断罪する。「かくして、『生け贄にされた白人』シンドロームが、ロナルド・エベンスのリアリティとなった」と。
ムーアの記事の中で、エベンスは、「不幸な事件ではあったが、大騒ぎするアジア系のせいで私はレイシストの悪者にでっちあげられた」と憤慨する。が、人目を避け、もう昔のふつうの暮らしには戻れないその姿は、孤独でわびしげでもある。その哀れな姿と対照的に、ムーアは翌日、首都ワシントン郊外で予定されている威勢の良い出来事を、予告する。「その頃、連邦議員10人が報道陣が集まる撮影イベントの準備をしていた。東芝の新品の大型ラジカセを居並ぶカメラの前で壊してアメリカは『日本の植民地』から脱しようと宣言するのだ。議員たちはきっと、ロナルド・エベンスが恥じ入るほど喜びに満ち溢れて、バットをふりまわすに違いない」。
政治家が人心をあやつるためにくりだすレイシズムや外国嫌悪の暴力の怖さを、マイケル・ムーアは、忘れない。日本でも、向けられる相手こそ違え、ちまたにはびこり、あふれているのは、こうした政権御用達のヘイトや偏見、憎悪なのだ。
感動しました。ありがとうございます。
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